三橋は静かに困惑していた。
いつものように屋上でスコープを覗いていたはずだった。その男が現れるまでは。
吹きさらしの屋上を生温い風が吹き抜ける。泉からも田島からも合図が無いということは、何か問題が起こったわけではないらしい。視界の端に向かいのビルを捉える。窓越しに、歓談を続ける泉が見えた。

気配もなく突然目の前に現れた黒髪の男の顔には、微かにだが見覚えがあった。いつか泉が「要注意」だと説明していた人名リストの三枚目に、この男の写真が貼られていた。短い黒髪に垂れた目尻、黒耀石の瞳。
不意に、三橋の構えるライフルの銃身を男が掴む。向けられた銃口に怯える様子もなく。


「殺せよ」


笑って、男はそう言った。
男の目線は三橋の胸元に向いていた。もし男が少しでも掴んだライフルの銃身をずらせば、もし男が少しでも逃げ出す素振りを見せれば、構わず抜き取るつもりだった拳銃が胸元で重く存在を主張する。男は薄く笑っていた。命乞いすらしなかった。











「……で、なんで連れて帰ってくんだよ……」


泉は静かに頭を抱えていた。
床に頭を打ち付けたい気分だったが、毛足の長い絨毯に頭を打ち付けても大した刺激にはならないだろうと考えて止めた。広い事務所の一室、絨毯の上には後ろ手に両手を縛られた男が正座させられている。黒の短髪に垂れ目の、泉のよく知る顔だった。阿部、隆也だ。


「なんで『N』のナンバー2が生け捕りにされてんだよ……」
「そこの茶色いのに言えよ。俺は知らねぇ」


縛られているとは思えないふてぶてしさでそう言って、阿部は顎で三橋を示した。壁ぎわに立っていた三橋はあからさまに目線をそらす。泉は再び頭を抱えた。
『N』と言えば、ここらではあまりにも有名なグループだった。正確な構成員の数までは知らない。しかし、薬の売買でも密輸でも何でも、やれることならば何でもして勢力を急速に拡大させたグループだとは知っている。極力、敵対したくも関わりたくもない相手だった。そこのナンバー2が今、事務所の床で縛られたまま正座しているのだ。


「……だって、殺せって、言うから」


三橋はぽつりと呟いた。
阿部は相変わらずの無表情を保っている。ああそうか、と泉は思った。元来、三橋は人を殺せない。ボスである浜田に忠誠を誓っているから、ファミリーに仇なす者には銃口を向けて躊躇なく打ち殺すけれど、そもそも、三橋は人を殺せないのだ。自発的には。


「……お前、」


そこまで考えて、泉は阿部に向けて口を開いた。『N』のナンバー2は頭の切れる男だと聞いている。そんなやつがみすみす三橋の前に現れて、しかもあっさりと捕まるだなんて、


「阿部、お前、わざとだろ」
「こうするしかねーだろ?」


上手くこっちに潜り込むには。
ニヤリと笑って阿部が三橋を見る。三橋はぱちりと一度まばたきをして、不思議そうに阿部を見返した。阿部が、わざと生け捕りにされた理由は明らかだった。狙いは三橋か、と泉は再び頭を抱える。

重い空気を震わせるように、机上の電話が軽やかに鳴る。泉には嫌な予感しかしなかった。生憎、電話を取らせようと思った浜田は煙草を買いに、田島は隣室で仮眠を取っている。
仕方なく、渋々と受話器を上げた。


『そっちに、うちの阿部がいるでしょ?』


開口一番、名乗りもせずに相手は楽しげにそう言った。まるで歌うように楽しげな、少し高い男の声。


「名前くらい名乗れよ」
『失礼、知ってるかなと思って。Nの栄口です』
「泉だけど、用件は?阿部を返せ、ってか」
『冗談はいいよ。阿部はあげる』


電話越しにくすくすと栄口が笑っている。泉にとっては冗談でも何でもなかった言葉にそう返されて、思わず舌打ちしたい気分になった。阿部を返せと言うのでないならば、電話の意図が分からない。


『阿部はあげる。だから、そっちの茶色の子をちょうだい』
「は?」
『あの子だよ、よくライフル持ってる子』
「やれるわけねーだろ」
『いいの?断って』
「…………」
『そっちは、うちの阿部を拉致してる。うちと敵対する理由に、これ以上のものは無いよね?断るならそれ相応のリスクを伴うけど』
「……それでも、三橋はやれねーよ」
『そ。まぁそう言うとは思ってたけどね。じゃ、交渉決裂ってことで』


最後に『覚悟しといてね』と言い残して。
ぷつり、それきり電話は沈黙した。気遣わしげな茶色の瞳が泉を見ている。床の上の阿部は「栄口か」とさも面白そうにひとつ口笛を吹いた。
恐らく、阿部がここに来たのは阿部の独断だ。それを利用したのが栄口。全く、面倒臭いのばかりが揃っている。

嘆息したかったが、三橋がまだこちらを見ているからそのまま息を飲み込んだ。代わりに、何でもない顔で泉は微笑んでみせる。


「心配すんなって」


そう言ったはいいものの、床の上で正座する阿部を一体どうすればいいのか。栄口は「あげる」と言っていたけれど、正直こんな爆弾を抱え込むのは御免だった。


「俺は役に立つと思うぜ?」


縛られたままとはやはり思えない余裕を見せて阿部が笑う。今度こそ、泉は溜めていた息を吐き出した。





















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