ここ数日、水谷の機嫌が更に悪い。
昨日も二袋分の飴を噛み砕いていた男の様子を思い出し、巣山はぐったりと肩を落とした。事務所へと帰る足どりは、極めて重い。きっちりと着込んだダブルのスーツも、首元まで締めたペールブルーのネクタイも窮屈で、今すぐ脱ぎ捨ててしまいたくなる。いつもならば、装うことは楽しみのうちの一つなのに。

カバンと共に左手に提げた紙袋からはコーヒーの芳香がただよう。栄口対策のために西広の店へと出向いたついでに、入荷したばかりだという豆を買ったのだ。鼻腔をなでていく香気とは裏腹に、西広との会話はひどく苦いだけのものだった。巣山は思い返して唇を歪める。

久々に顔を会わせた西広は相変わらず穏やかな物腰で、コーヒーの湯気越しに柔和な微笑を浮かべていた。店内を流れるやわらかな音楽に、こぽりこぽりと時折エスプレッソメーカーからこぼれる音が混じっている。カウンターの端に腰を落ち着け、巣山は出されたコーヒーに口をつけながら話を切り出した。

「栄口が少し、浜田のところのやつと揉めそうなんだ」
「ああ、巣山が手を出したら角がたつもんね。栄口をうまく止めて欲しい、ってのが依頼かな?」
「察しが早くて助かるよ」

相変わらず、頭の切れる男だ。そう思いながら口に含んだ液体が軽やかに舌を過ぎて喉へと落ちる。熱く淹れられたコーヒーは、酸味も苦味も丁度よく巣山の好みに合致していた。聡明な男というものはコーヒーを淹れることにすら天賦の才を発揮するのだろうか。
西広は自分の分のコーヒーを注ぎながら、「巣山はお得意様だし、喜んで引き受けるよ、と言いたいところなんだけど」と苦笑した。雲行きの怪しいその言葉に、巣山は顔を上げて二の句を待つ。

「この間、栄口の依頼を受けちゃったんだよね」
「……栄口のやつ……」

先を越された、と頭を抱える巣山に対し、西広は申し訳なさそうに眉根を下げた。

「うちは一応、先に受けた依頼を優先することに決めてるから、ごめん」
「いや、当然だ。西広が悪いわけじゃない」

こちらが、栄口より出遅れただけだ。
巣山は再びコーヒーに口を付ける。自らが、栄口が本気か否か計りかねていたことと、なるべく内々に済ませたい打算とが相まって、初動で遅れをとってしまったことは明らかだった。
さて。西広の助力が得られないとなれば、外部の誰かに頼るというプランは破棄しなければならない。
組織の内部で問題が起きた時に最も恐れなければならないのは、外部からそれにつけこまれることだ。西広ほど信頼のおける男が、今から容易に見つかるとは思えなかった。
いよいよ、Nの誰かを動かすより他に手はないらしい。

「……また、水谷の機嫌が悪くなりそうだな」

あと、花井の胃が心配だ。思わずぽつりとそう呟いた巣山に、西広は「せめてものお詫びに」と慰めるように言いながら楕円の皿を差し出した。甘い香りに目を向ければ、美しい狐色に焼き上がったマドレーヌがふたつ。

巣山が思わず頬をゆるめると、西広も安堵したようにふわりと笑った。









巣山に手渡された紙袋からは、深く煎られて艶々と輝くコーヒー豆が、素晴らしい香りをまとって現れた。花井が紙袋を裏返すと、そこには『グアテマラ/フルローストです』とやけに丁寧な手書きのメモが貼り付いていて、どうやらこれは巣山が好んで通っている店のもののようだ、と見当がついた。どうやら巣山の古い知人が経営している店らしいが、花井自身は未だに行ったことがない。豆から判断するといい店みたいだな、と考えつつ花井はコーヒーカップを用意する。
巣山はソファーに深く座って、大きく嘆息しつつ上着を脱いでいた。

「栄口が、動き始めたみたいだ」

ネクタイをゆるめながら巣山が短く告げた言葉に、花井はぴたりと手を止める。栄口の宣戦布告から、まだ三日しか経っていない。
いや、もう三日経った、と言うべきか。どうやら俺達は栄口に対して、のんきに構えすぎていたらしい。

「できれば内部抗争は避けて、外部の人間に頼みたかったんだが、先手を打たれた」

巣山は苦々しげに吐き捨てる。栄口は戦力としては並だが、だからこそ自分に出来ることと出来ないことを冷静に見極め、綿密に計画を立てて動くタイプだ。その栄口が動き始めたとなれば、一筋縄ではいきそうにない。
花井は紙袋からコーヒー豆を掬い上げ、ミルで挽きながら巣山に向けて口を開いた。

「じゃあ、いよいよあいつに連絡するしかないな……」
「頼む、花井」
「分かった。巣山も、あいつがきっちり動いてくれることを願っといてくれよ」

俺、あいつちょっとだけ苦手なんだよなぁ。思わずそう呟いた花井の顔を見ながら、「大丈夫だろう、あいつの実力はお墨付きだ」と巣山が笑う。
実力以前の問題なんだけどな、と花井は密かに一人ごちた。まあしかし、今回はいくらあいつでも滞りなく動いてくれることだろう。

あいつ――阿部隆也も、三橋廉にはずいぶんとご執心のようだから。









鼓膜を震わせるアルトサックスの音色と、鼻をくすぐるコーヒーの芳しい香り。
西広は店内を見渡してひとつ頷いてから、にっこりと笑う。カウンターもイスも飴色に輝いて美しい。今日も、自分の店は抜群のコンディションを保っている。

この店では数種の銘柄のコーヒー豆とコーヒー、そしてたまに西広が焼いたフィナンシェやマドレーヌといった焼き菓子を提供している。喫茶店、と呼ぶほどたくさんのメニューがあるわけではないから、週の始めに訪れる業者から受け取ったコーヒー豆はまだ十分に残っていた。

開店準備をしながら、西広はのんびりと豆を挽く。ここは、カウンター席が五席あるのみで、店員も自分一人というほとんど趣味でやっているような店だから、あくせくと時間に追われる理由もない。
先日久々にここを訪れた栄口も、「なんだか時間が止まってるみたいな店だよね」と言いながら、ゆっくりとコーヒーを口に運んでいた。

入口のドアに掛けた札を裏返し、「OPEN」の文字を表に向ける。しばらくすると軽やかにベルを鳴らしながら扉が開き、見慣れた姿が店内に現れた。

「いらっしゃいませ、久しぶりだね、泉。アイスとホット、どっちがいい?」
「ホット。後から田島と三橋も来るってさ」
「丁度よかった、今朝ブラウニーを焼いたんだよね」
「食い尽くされないように気を付けろよ」

カウンターの真ん中に陣どった泉は笑って、俺もひとつ食いたい、と付け加えた。
泉のファミリーの事務所はこの近くにあるのだと聞いている。彼はよくコーヒー豆を買いに来たり、あるいは田島や三橋、浜田と共に、店へ訪れる常連客だった。主に、この店の「表」――コーヒーを提供したりといった、喫茶店として――の仕事を目的に。
淹れたコーヒーにブラウニーを添えて差し出せば、嬉しそうに泉の口元がほころぶ。

「最近、泉のところはどう?」

そう西広が口にした瞬間、穏やかだった店内の空気がぴんと張り詰め、泉の目が細められた。スピーカーから流れる音楽が遠ざかって聞こえる。

「西広こそ。栄口が訪ねて来たりしたんじゃねーの?」
「栄口が?どうして?」

張り詰めた空気を保ちながら、まるで天気について話すような何気ない口調で核心を突く泉の言葉に、西広は内心で舌を巻く。泉はきっとこの店の「裏」の仕事も知っているのだろう、と推測してはいたけれど。栄口と泉――頭脳派同士のいさかいは本当に心臓に悪いなあ、と思う。おそらく、泉にバレることも栄口は想定済みなのだろうけれど、それにしたって、間に立たされる身にもなって欲しいものだ。

「まあ、そんなことはどーでもいいんだけど」

そう言いながら、泉がブラウニーのかけらを口に運ぶと同時に、張り詰めていた空気もようやくほどけた。これうまいな、と幸せそうに笑顔をこぼし、彼はざくざくとフォークでブラウニーを切り取っていく。
西広はその様子を眺めながら、栄口の依頼に思いを馳せた。栄口の依頼と、泉の発言、それから先程の泉の様子。それらを総合して考えれば、彼らの諍いの原因は容易に推察できる。

不意に、低い振動音が西広の耳をくすぐった。泉がフォークを置いて、ポケットから携帯電話を取り出す。

「田島、なに?……は?迷った?」

ったく、と合間に挟みながらここへの道順を説明している泉を見ながら、まるで保護者だなぁ、と西広は小さく笑った。自分のぶんと、それから田島と三橋のコーヒーを用意しなければ。あの二人は本当にたくさん食べるから、ブラウニーだけではなくて、パスタか何か用意したほうがいいかもしれない。

お湯を沸かしながら、相変わらず田島に道順を説く泉を見る。
昔の泉は、もっと冷酷で辛辣で、彼がこんな風に誰かと馴れ合ったりする様子は見たことがなかった。変化のきっかけはきっと、あのふわふわした茶色の子だ。そして、栄口と泉の諍いの原因も、おそらく。

店の窓から、こちらに向かって手を振る田島と三橋が見えた。
泉は安心したように携帯電話を納め、笑顔で二人に手を振り返している。やわらかい表情、のどかな雰囲気。まるで昔とは別人だった。

西広も、窓の向こうの二人に向けてにっこりと笑う。
昨日ここを訪れた巣山によれば、三橋は随分前に自分が水谷からの依頼で拐ってきた子供たちのうちの一人だったらしい。運命とは往々にして皮肉なものだ。
ごめんね、三橋。俺は依頼をされれば何でもすることに決めているから、三橋にはどうやらまた不幸をもたらすことになりそうだ。
西広は静かにコーヒーをいれながら、二人のためにナイフで大きくブラウニーを切り分ける。チョコレート生地にたくさんのクルミを入れたこの焼き菓子は西広の得意料理で、しかも今日は特別美味しくできたから、彼らの喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。

「ありがとな、西広」

そう告げる泉に、西広は笑って首を振りながら、思う。礼を言われるような行いをしたことは一度もない。

大切なものが奪われる時、穏やかな泉の表情はどんなふうに歪むのだろうか。

右手のナイフにクルミを砕く手応えを感じて、少しだけ笑った。


















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130702

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