十年前から、ずっと。そう、ずっとだ。
水谷はソファの背にもたれながら思い出す。記憶だけは決して我が身を裏切ることなく、いつでも優しく微笑んでくれる。口内で転がしている飴はミルクココアの味がして、甘くやわらかく溶けていく。
水谷にとって、三橋は唯一無二の存在だった。研究対象として、そして、ひとりの人間として。

出会いは灰色の部屋だった。孤児院から連れて来られた子供達が無造作に詰め込まれた、地下研究所の一室。むき出しのコンクリートの壁しか見えない、狭苦しい部屋。子供らは隅のほうに固まっていて、まるで群れた雛鳥のように見えた。怯えた小さな雛鳥達のように。実際、子供達は寒くもないだろうに酷く震えていた。
扉にはめ込まれたガラス越しにその様子を眺めながら、無理もない、と水谷は思う。子供らの反応は正しい。恐らく、本能的に察知しているのだろう。ひときわ震えている薄茶の髪の子供を見ながら思う。選ばれてしまって可哀想に。残念ながら、ここは、そういうところだ。


「名前」
「み、み、」
「早く」
「み、はし、れん」
「ミハシね。384かー、覚えやすくていいね」


名前は記号にすぎない。実験用ラットにどんな名前をつけようと、ラットはラットだ。イチゴ味だろうがミルク味だろうが、飴は飴。M82だろうがAR-15だろうが、ライフルはライフル。性能を識別するためだけの名称に何の意味があるんだろうか。機械的に番号をつければいいのに。数字は覚えられるけれど、名前を覚えるのは苦手だ。

水谷はガリガリと奥歯でキャンディーを噛み砕く。ミハシが脅えたように肩を揺らして、小さく縮めていた身体をいっそう小さくするようにうつむいた。なんだかやけに腹がたったので、水谷は更に奥歯に力を加える。プラスチックで作られたちゃちなキャンディーの棒は、耐えきれずすぐにぱきんと割れた。
ミハシの身体検査の間、始終水谷は苛々と飴を噛み砕き続け、そのたびに萎縮するミハシのデータを用紙に書き込み、さっさと部屋から追い出した。
入れ代わるように、西広が律儀に二回ノックをしてから部屋のドアを開ける。


「返事する前に開けたんじゃ、ノックの意味がないと思うんだけど」
「水谷が毎回返事しないからだよ。使えそうな子はいた?」
「あんまり。二番目の短髪はギリギリ。五番目の黒髪のやつはまあまあ。今出てったのは微妙」
「ひどい評価だね」
「報酬は払うよー」


ばさりと机に投げた封筒を、西広は重さを計るようにひょいと手のひらに乗せて、中身を確かめもせずに出ていった。水谷はその背中に向かって毒づくかわりに、口内の飴を噛み砕く。あーあ、今回もハズレか。あんまり頻繁には、材料集め出来ないってのに。


しかし、意外にもミハシは優秀だった。初対面の印象から、正直まるで期待はしていなかったのに、投薬や訓練で脱落することもなく、ライフルの扱いはすぐに誰よりも上手くなった。
水谷が根城にしている地下の一室、その壁は一部がマジックミラーになっていて、いつでも射撃場が見えたから、ぼんやりと飴を舐めながら練習風景をながめていた。


「あの右端の茶髪はアタリなんじゃないか?」


向かいのソファでコーヒーをすすりながら、巣山が目を細めて呟く。


「『ミハシ』ね。まぁこの中じゃ一番使えそうなんじゃないの」
「……」
「なに?」
「いや。水谷が、相手の名前を覚えるのは珍しいな、と思っただけだよ」


巣山が感心したようにぽつりとそう言ったので、水谷はなんとなく視線をそらした。381と、数字に置き換えやすい名前だったからかもしれない。
ミハシは順調に腕を上げた。そして、相変わらず気弱でいつもおどおどしているその様子に、水谷は飴を噛み砕き続けていた。






慣れないコーヒーで胃が痛い。仕事部屋から身体を引きずるように廊下まで出て、水谷は廊下の壁にもたれる。巣山が雑務ばっか押しつけるせいで、最近ろくに睡眠時間もとれない。仕事部屋のソファで寝てしまおうかと考えながら、身体はずるずると床に向かってずり落ちる。どうせ明かりも射さない地下だ、仕事部屋でも個室でも廊下でも変わらない。
開き直ってだらしなく廊下に横たわり、ぺたりと頬を床につける。汚いかもしれないけど、ひんやりしてなかなか心地がよかった。さっきまで抱えていた書類が放射状に広がって、まるで美しい模様のよう。


「あー、きもちい……」


呟いて、ゆっくりと下ろそうとしたまぶたの隙間に、なんだかやけに白い足が見える。ついでに「ぺくしゅっ」という、なんだか間の抜けたくしゃみの音。そうか、ここは寒いのか。己の身体はずいぶんとあたたかいから気づかなかった、と水谷は考える。室温をもう少し高めにしてやらないと。空調のためにはもう一度仕事部屋に戻らなければ――


「あ、の」


ぺたり。
ずいぶんと冷たくて薄い手のひらが、前髪をかき分けて押し当てられた。水谷は少しだけ身体をずらし、重たいまぶたを持ち上げる。
ああ、なんだか甘そうな髪の色だ。きっと陽の光に透かせばアカシアの蜂蜜みたいにやわらかくほどけて、きらきら躍るんだろう。いいなあ。
呆けた頭がくるりと、そんなことを考えた。


「熱、ある、よ」
「かもねー」
「こっ、ここ、寒い、から」
「あー」
「み、み、ずた、に、くんっ」


うるさいなあ、心配するなんて馬鹿じゃないのか試験体の分際で、などと考えつつ再び閉じかけていたまぶたを、途中で止める。
狭い視界には相変わらず甘そうな色と、焦ったように揺れる瞳がふたつ。


「なんで、俺の名前知ってんの?」
「え……あ、の、背のたかい、ひと、が」


巣山のことだろうか。ああ、なんだかイライラする。でも口内に飴はない。
額に当てられたままの手のひらがどんどん温くなっていく。


「みはし」


消え入るような、掠れた声の呼び掛けに、三橋がふにゃりと嬉しそうに笑ったように見えた。
水谷は心地好さに目を閉じる。触れあったまぶたの隙間から、水滴が一粒こぼれ落ちたような気がする。









「三橋廉が逃げた」


そう苦々しく巣山が告げた瞬間に、自分は何を思ったのだったか。憤怒?悔恨?はたまた悲哀だろうか。水谷にはもう思い出せない。
額がひんやりと心地よいものに覆われる感触を思った、ような気もする。実際には、口にくわえようとしていた飴が指の隙間からぽろっとこぼれ落ち、床の上で跳ねただけだったけれど。
ああ、なんだかとてもやわらかくて、あたたかいものに指先が届いたような気がしたのに。


「へー、そうなんだ」


踏み潰した飴は粉々に砕け、透き通った赤い破片になった。











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120221

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