二人で壁の中に閉じ込められていた、灰色の日々。

射撃訓練の合間に、三橋はいつも壁を見ていた。窓ひとつ無い、薄汚いコンクリートの壁を。
そうして、沖の視線に気付くと、取り繕うようにへにゃりと笑ってみせた。いつでも。その笑顔が今も強く目に焼き付いている。

今思えば、きっと三橋は壁の向こうの外を見ようとしていたのだと思う。ライフルを握らされ、投薬や検査を繰り返すだけの日々から逃れたい。その思いは沖にもあったから。


「ここから出られたら、三橋は何をしたい?」
「出られ、たら?」
「うん」


地下の、狭い独房のような部屋には二つのベッド。コンクリートの壁と同じく灰色の床は酷く冷たかった。
暗闇の中で、向かいのベッドに寝転んだ三橋とよく、そんな夢のような話をした。ここからもし出られたら。


「ハマちゃんに、会いたい」


闇の中で嬉しそうに三橋が言う。ほんの僅かに、哀しみを含んだ声音で。
ここに軟禁されて、もう何年になるのかすら分からない。時間の感覚は曖昧だった。


「ハマちゃん?」
「うん」


普段はあまり能弁でない三橋が、「ハマちゃん」の話をする時だけは饒舌になった。
沖とは別の孤児院からここに連れて来られたらしい三橋の、昔の兄貴分の話。高い木にいとも簡単に登って、枝に引っ掛かった三橋のブランケットを取ってくれたこと。野良猫や野良犬によく懐かれていたこと。皆にも慕われて、リーダー的存在だった彼のこと。


「会いたい、な」


消えるような呟きを残し、三橋の話は終わった。


「会えるよ、絶対」


沖がそう言ったのは、慰めでも気休めでも無かった。三橋は、ここに居るべきじゃない。



あの夜は煙るように雨の降る、生暖かい水底のような夜だった。
いつも水谷によって閉じられている扉が、細く開いていることに気付いたのは沖だった。自分たちの生活している研究棟の一階、廊下の奥の奥。外へと通じる鉄の扉。鍵を掛け忘れたのだろう、と思った瞬間に指先が震えた。ゆっくりと扉のノブに手を伸ばす。今なら、逃げられる。


「三橋」


潜めた声で呼ぶと、ちょうど地下にある射撃練習場から続く階段を登ってきた三橋と目が合った。見慣れたライフルのケースを抱えている。
重い鉄の扉を押して外を見せれば、三橋は大きな目をますます丸く見開いた。信じられない、という風に唇も薄く開いている。
沖自身にもまだ信じられなかった。けれど、ノブを握る指先に触れていく雨は本物だ。


「逃げて、三橋」
「沖くん、は」
「俺はいいから」


二人同時に姿を消せば、水谷は必ず行方を追って来るだろう。三橋一人だけならば、見逃してくれるかもしれない。逃げ切れるかもしれない。水谷の怒りも、自分が引き受ければそれで済む。それで済むのなら、それでいい。


「俺のことは、ここのことは誰にも言っちゃ駄目だよ。足がつくから」
「で、も」
「『ハマちゃん』によろしくね、三橋」


沖が無理矢理に扉を閉める寸前まで、三橋は何度も何度も振り返っていた。ライフルのケースを抱えたまま、何度も何度も。煙るような雨はきっと三橋の足取りを消し、逃亡するその姿を隠してくれるだろう。
扉を閉め、沖はその場にずるずるとしゃがみこむ。どうか、どうか幸せに。
重ねた両手はまるで祈りを捧げるようだった。届くあての無い祈りは、無機質な床にじわりと溶けて消えていった。











「たったこれだけー?」


巣山の手から勝手にファイルをひょいと奪い、立ったままパラパラと中身を斜め読みしながら、水谷は口を尖らせている。巣山は苦笑しつつ備え付けの固いイスに腰掛けた。水谷がぽいとファイルを投げ捨てる。薄い紙の束は、つるりとした床の上に軽く羽ばたくような姿で着地した。
部屋の隅でライフルの手入れをしていた沖が僅かにぴくりと身体を動かす。


「居場所しか分かってないじゃん、三橋の」
「だから、最初からそう言ってるだろう」


ワイシャツにネクタイ、その上によれた白衣をはおった水谷が、巣山の向かいにどすんと腰を下ろす。
不機嫌な表情で白衣のポケットを探り、棒付きキャンディーを一本取り出すとペリペリと包みを剥きはじめた。

相変わらず自由だな、と巣山は思う。ここの責任者は水谷なのだから、仕方がないといえば仕方がないのだが。花井や栄口にも知らされていない、Nの研究機関。主に、戦力面を補うための。

巣山は立ち上がって水谷の投げ捨てたファイルを拾う。クリップで留めていた三橋廉の写真が、ファイルの隙間からひらりと床に落ちた。

三橋廉は最も優秀な研究材料だった。ライフルの分野において最も優秀な成果を挙げ、身体的には申し分無い成績を残していた。
床に落ちた写真を拾う。
背後で、ガリッと飴を噛み砕く音がした。


「いつになったら三橋を連れて来てくれるわけ?」


水谷はガリガリと飴を噛み砕きながら、白衣のポケットからまたひとつ飴を取り出す。甘いイチゴやミルクの匂い。包み紙を剥きつつ、水谷は飴の棒を噛んで笑っていた。
ガラにもなく、嫌な汗が背中を滑る。ガシャン、と遠くで沖がライフルの部品を取り落とす音がした。
苛立った水谷の怖さも、水谷がどんなに三橋を可愛がっていたのかも、巣山はよく知っていた。











「あれ、栄口。珍しいね」
「ちょっとね」
「なににする?」
「ブレンドのブラック」


西広が慣れた手付きでコーヒー豆を挽くのを、栄口はぼんやりとながめていた。店内に、栄口の他に客は居なかった。裏路地にあるこの喫茶店には看板もなく、まるで商売をする気がないとしか思えない。
カウンター席しかないこの店でコーヒーを煎れる西広の姿はなかなか板についている。まるで、元マフィアだとは思えないほどに。


「はい、どうぞ」
「ありがとう」


美しく研かれたカップに口を付ける。苦みと酸味も程よく、芳ばしい香りが口内に拡がった。美味しい。


「このまま喫茶店のマスターになればいいのに」
「そういう栄口こそ、用があるから訪ねて来たんだろ?」
「まぁね」
「用件は?」
「ちょっと力を借りたいことがある」
「情報面?武力面?」
「どっちも」
「切羽詰まってるんだね」


そう言って西広は可笑しそうに笑った。
くすくすと声をこぼしながら、ゆっくりと手元のカップをひとつ手に取り、真っ白なクロスで研き始める。


「情報面なら百枝さんも頼れるんじゃないの?」
「いやー、今回はあの人なんか隠してる感じがしてね…」
「なんかって?」
「知ってることも教えてくれてないような感じだよ」


ふぅん、と言いながら西広は右手のクロスを規則正しく動かす。栄口は頬杖をついてそれを眺めつつ、小さく溜息を吐いた。
店内には一昔前のジャズが流れている。ゆったりとした雰囲気。カウンターの内側でカップを研く便利屋の男には、まるで似付かわしくないような気がする。
さらりとした顔で汚れ仕事でも何でも請け負う、便利屋のこの男には。


「で、引き受けてくれるの?」
「報酬次第、って言おうかと思ったけど、栄口の頼みだしねぇ」


コトン、と研き終えたカップをカウンターに置き、西広はふわりと微笑んだ。


「そういうことなら協力するよ。武器の用意はよろしくね」















QLOOKアクセス解析
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -