待ち人は時間どおりに現れた。

コツコツと規則正しいヒールの音。浜田は音を追って振り返る。彼女に会うのは二年ぶりだった。二年前に、三橋のことを尋ねて以来だ。


「元気にしてた?」


チャコールグレーのパンツスーツは彼女に良く似合っている。ひらひらと手を振りながら微笑む彼女に、浜田は軽く会釈を返した。


「百枝さんも元気そうですね」
「まぁ、ね。浜田くんから呼び出されるなんて、少し驚いたわ」
「立ち話も何ですし、その辺でコーヒーでも飲みますか?おごりますよ」
「じゃあ、あれ」


百枝が指差す先には公園の自販機があった。相変わらず読めない人だなぁ、と浜田は小さく笑う。何年も前から、この人はちっとも変わらない。


「三橋くんは元気?」


公園のベンチに腰掛け、カシュ、とプルトップを引きながら百枝が尋ねた。缶コーヒーの薄っぺらい香りが拡散する。百枝の隣に腰を下ろし、浜田はくわえた煙草に火を点けた。肺まで深く吸い込んで、細く長く煙を吐き出す。


「ずいぶん、笑うようになりました」
「十年前みたいに?」
「ええ」


十年前みたいに。
ぼやけた、けれども淡く色付いた、パステルカラーの絵画のような思い出。浜田と三橋が最初に出会ったのは、この街の外れにある小さな孤児院だった。親を亡くして、そして何の気紛れかマフィアのボスに養子として拾われるまでの数週間、浜田はそこで暮らしていた。
孤児院で出会った三橋は引っ込み思案だけれどよく笑う、笑顔の可愛い弟分だった。どこに行くにもヒヨコのように一生懸命についてきて、たった数週間の付き合いだった浜田との別れを惜しんで泣いてくれた。いつも、小さなブランケットを大事に大事に抱えていた。

もう一度、深く煙草を吸って、吐く。火種が舐めるように口元へと迫り、細かな灰が風にさらわれて消える。


「孤児院を出たあとの三橋のことは、やっぱり分かりませんか」


二年前と同じ質問。
百枝は缶コーヒーを口へと運び、小さく傾ける。ブラックの缶コーヒーからはただ苦いだけの芳香がした。


「浜田くんが孤児院を出た直後に、誰かが三橋くんを引き取ったところまでは分かってるの」


そう言って、百枝はひとつ息を吐いた。浜田は再度煙草を吸い付ける。ジリジリと葉の焼ける音を残し、灰が重たくぶら下がる。


「逆に言えば、そこから先が全く分からない。誰が三橋くんを連れて行ったのか、どこへ連れて行ったのか。二年前に浜田くんのところを訪ねるまで、三橋くんが何をしていたのか」


二年前。
ぐしゃぐしゃに濡れて汚れていたけれど、浜田にはそれが三橋だとすぐに分かった。戸惑ったのは、三橋が欠片も笑っていなかったからだ。まるで能面のように表情の無い三橋が、浜田の前に立っていた。
「ここに置いてください」という小さな呟きと、手の甲に当てられた唇の熱さだけを今も覚えている。三橋は身の回りのものを何一つ持っていなかった。ただ、ブランケットの代わりに、仰々しいライフルのケースひとつを大事に抱えて。


「三橋くんは何も話してくれないの?」


片手でスチール缶を弄びながら、前を向いたまま百枝が言う。視線の先では五歳くらいの子供が二人、キイキイと無邪気にブランコを揺らしていた。公園の中は生温くも穏やかな空気に満ちている。
浜田は煙を吐きながら笑って首を横に振った。百枝は小さく「そう」と相槌を打つ。

強く聞けばきっと三橋は答えるだろうな、と浜田は思った。空白の八年間について、全て。
聞けないのは、その代償として今の笑顔が失われるような予感があるからだ。

フィルターの寸前まで吸った煙草を口から離し、携帯灰皿を取り出した。銀色の丸いそれを開き、短くなった煙草をねじ消す。隣の百枝が少しだけその目を丸めた。


「意外ね。昔は平気で地面に捨ててたのに」
「三橋がくれたんです」


答えると、彼女はくすくすと暖かい声音で笑った。少しばつの悪い気持ちになる。
空になったスチール缶を手に立ち上がった彼女が、思い出したように振り返る。その顔に、先程までの笑みは無かった。


「三橋くんのこと、よく見ておいたほうがいいわよ」
「栄口のことなら、もうこっちに直接連絡してきたみたいですよ。三橋を寄越せって」
「栄口くんもだけど、もっと危ないのが動いてるから」
「危ないの?」
「私も詳しくは言えないの。でも、とにかく注意してあげて」


百枝が投げた空缶は綺麗な弧を描いてゴミ箱に吸い込まれていった。立ち去る彼女の後ろ姿を見ながら、浜田はベンチの背にもたれる。嫌な予感を振り払うように、片手の携帯灰皿を強く握った。











「栄口が動く前に手を打つべきだろうな」
「何考えてんだろうなぁ、あいつは」


花井はげんなりと息を吐いた。三橋廉の件だけでも厄介なのに、栄口の動向にまで気を配らなければならない。
同じチームに属している栄口の動向を知るのは容易いことだ。面倒なのは、いざとなったら栄口を止めなければならない、ということだった。常々、敵に回したくないタイプだと思っていたのに。

巣山はあくまで冷静に、淡々と書類をめくり続けている。


「やる気が削がれるよなぁ。栄口はあれだし、俺は依頼主の顔も知らねーし」
「花井。仕事は仕事だ、違法賭場の件を片付けたら三橋廉の件に移るからな」


薄いストライプの入った濃紺のスーツに身を包んだ巣山が言う。巣山は仕事人間だ、としみじみ思いつつ、花井はまたひとつ溜息を吐いた。
「命」を賭けるのは冗談だとしても、栄口の笑顔は本気だった。先に三橋廉を手に入れたりしたら栄口に背後から刺されそうで、ますます気が進まない。

涼しげな巣山の顔をちらりと見る。巣山は何かを知っているのだろうと気付いてはいたが、深く追及するのも面倒だったからやめた。

花井の手の内にある資料の上部には、クリップで留められた「三橋廉」の写真。まだ若い、青年とも呼べないあどけない顔を僅かに強ばらせて写っている。


「なんだかなぁ」


こんな幼さの残る少年を、うちの組織は、依頼主は、なぜ血眼になって探しているのか。小さく呟いても答えは返ってこなかった。











装弾。
スコープを覗き、息を止めて標的の中心を狙う。訓練だと分かっていても、引き金に掛けた沖の指は震えていた。
狙撃手が撃つことを恐れるなんて話にならない。そんな嘲笑はもう聞き飽きるほどに浴びせられていた。
右に2ミリ修正。引き金を、引く。

脳を裂くような銃声。
放たれた銃弾は、的であるマネキンの頭部を綺麗に粉砕した。


「上手上手」


パチパチと暢気な拍手の音が響く。
背後から飛んできた楽しそうな声に、沖の背筋は震えた。いつも本能が告げる。この声は、怖い。

震えを噛み殺して振り向くと、茶色がかった髪の男がにこにこと後ろで笑っていた。しかし、その垂れた目は欠片も笑んではいない。


「沖も少しは使い物になったんじゃない?」


とん、と軽くステップを踏むように男は沖の横に立つ。はおった白衣がふわりとひるがえる。
沖は僅かに身を引いた。笑う男の指先が銃身をつ、となぞっていく。不満気な目の色はそのままに。


「あまり苛めてやるなよ、水谷」


誰かの低い声が、停滞した空気を揺らした。
沖が視線だけを横へ動かすと、巣山が薄いファイルを手に扉のそばに寄りかかってこちらを見ていた。いつ入って来たのか、巣山の気配にすら気付かなかった自身を責める。沖の手のひらは嫌な汗でじっとりと湿っていた。
水谷がようやく沖の傍らから離れる。


「苛めてないよー」
「嘘つけ。そんなんだから三橋廉に逃げられるんだ」


三橋。
不意に耳に飛び込んできた懐かしい名前に、胸の奥が震えた。同時に、酷く嫌な予感が脳内に満ちていく。
口をつぐんだまま、沖は空薬莢を強く握る。じわり、金属に残る熱が手のひらを舐める。
二年前。無理矢理にあの手を引いてここから連れ出した。細く見える背中を扉の隙間から見送った。幸せに、と願っていた。
三橋。


「で、巣山がここに来たってことは何か収穫があったんでしょ?」
「居場所が分かったくらいだよ。今どうしてるのかはさっぱりだ」
「そんなことどうでもいいからさー」


早く三橋を目の前に連れてきてよ。
そう言って、水谷はにこりと笑った。それは最も沖の嫌いな、底冷えのする笑顔だった。


幸せに、と願っていたのに。





























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10.0330

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