薄暗闇のなか、泉はぼんやりと自転車の鍵を外す。気の早い蝉が一匹、切れ切れに声をこぼしていた。駐輪場に一人分の影が淡くのびている。

あの夜以来、ぷっつりと三橋からの連絡は絶えた。
ここ一週間毎日メールをしていたせいか、少しの喪失感を感じてしまう。しかし、自分から連絡したくてもメールを打つ指は不自然に強張って動かず、携帯にはただ送られることのない文字列だけが淡々と蓄積されていくだけだった。
教室や部活内では、もちろん田島や浜田を交えて三橋と話す機会もあった。三橋は何もなかったかのように自然な様子で、飛び交う言葉はまるで白紙のように軽く、そこに何らかの感情が含まれているようには見えなかった。当たり前だろう。実際、互いの間には何もなかったのだから。

たった一週間のことだったのに。
帰り道、自分の左隣はぽっかりと空いていて、無意識に自転車のハンドルを強く握っていた。とんだ意気地無しだ、と自嘲する唇すら強張るのだから重症だ。







「いずみー、土曜の部活後に巣山たちと服買いに行くんだけど、行く?」
「あー……」

のんびりとした水谷の誘いに、汗くさいシャツを脱ぎながら泉は鈍く言葉を返した。練習後の部室は体臭と少しの制汗剤のせいで混沌とした臭気に満ちている。水谷の後ろから、栄口がひょいと顔をのぞかせた。

「巣山が、オススメの店教えてくれるってさ」

そう言って朗らかに笑う栄口の声を聞きながら、意識はその背後の三橋に向いてしまう。三橋は気にした様子もなく淡々と着替えているのに、未だに女々しく気にかけてしまう自分が嫌になった。

「土曜はちょっと、用があるからパス」
「えー」

断りの言葉に対して水谷は口を尖らせたが、一瞬考えるような顔をしてから、すぐにキラキラと目を輝かせ始めた。わかった、あれでしょ、デートでしょ!と言いながらからかってくる水谷に反論する気力もなく、適当に頷いてさっさと部室の扉に向かう。
ちらりと見えた三橋は、阿部や田島と話しながらまだゆっくりと着替えを続けている。

「デートの感想、楽しみにしてるから!」

一言どころか二言も三言も多い水谷を一度蹴ってから、部室を出た。







金曜の夜にぽつりぽつりと降り始めた雨は、土曜の朝には嵐と化して吹き荒れていた。にやにやとからかう水谷の顔を思い出し、ざまーみろ、と少し笑う。強風がガタガタと窓枠を揺さぶり、目に見えるほど大きな雨粒が無数に地面を突き刺していく。花井から来たメールには、簡潔に部活中止の旨が綴られていた。

部活がなくなったからと言って特に他に予定があるわけでもなく、試験はまだ先で勉強しようという気にもならない。予期せずぽっかりと空いた時間を持てあまし、二、三度ごろんとベッドに寝転んだりしてみてから、部屋着を着替えようと立ち上がった。傘をさしてもどうせ濡れるのだから何でもいい、と適当に選んだジーンズとTシャツを身につける。家で携帯を眺めていると、来るはずのないメールを待ってしまいそうで嫌だった。

外に出た瞬間、渦巻く風に息が詰まった。雨は見た目よりも小降りだったけれど、傘の四方から吹きつける風のせいで歩みが不安定によろめき、あちこちが濡れる。携帯を持ってこなかったのは正解だった、と思いながら息を吐く。空を見上げれば、分厚い雲が恐ろしい速さで風に引きずられていくのが見えた。

大した目的もなく入ったコンビニには、天候のせいかほとんど客がいない。ぼんやりと暇そうにあくびをする店員を尻目にマンガを何話か立ち読みして、イクラのおにぎりとアイスを買って外に出る。相変わらず風は強いけれど、雨は更に幾分か弱くなったように思えた。
この分だと午後からは部活があるかもしれない。歩きにくい嵐の中で精一杯足を速めて自宅へ向かう。

ふと、顔を上げた先に、三橋が見えた気がした。
ついに幻覚か、と目をしばたくが、向かいから歩いてくるのはどう見ても三橋だった。紺色の傘を不安定に揺らしながら歩く三橋の目も、しっかりとこちらを捉えて、揺れた。

「三橋?」

何でこんなところに、と思いながら発した言葉に、三橋はぴたりと足を止める。あと数歩で傘が触れあいそうな、微妙な距離。一瞬強く吹いた風に三橋の傘は傾き、その表情を隠した。少しだけのぞいた唇がうっすらと開き、言葉が風に運ばれる。

「泉くんは、今日、デートだ、って、」

水谷くんが、部室、と途切れながらも三橋の口から単語がつむがれていく。デート?戸惑いながら、部室での会話を記憶から掘り起こした。ああ、あれか。同時に、好きなやつと上手くいっているから、と三橋に報告したことを思い出す。冗談めかした水谷とのやり取りは、随分と信憑性をもって聞こえてしまったのかもしれない。
あの時、三橋は興味なさそうにしていたくせに何で今更蒸し返すのだろう、と三橋が悪いわけでもないのに少し苛立っていた。三橋にではなく、好きなやつにデートについて尋ねられるこの状況と、それをいちいち気にしてしまう自分に泣きたくなる。
もう、嫌だ、苦しい。
向かいから吹き荒れる風に口を塞がれ、満足に呼吸すらできない。風を背にした三橋が、ゆっくりと唇を動かすのが見えた。

「俺は、いやだ」

何が、と問おうとした自分の口は、やっぱり上手く動かなくて。口を開きかけたまま、ただ、目の前の傘の紺色を見つめた。
やはり三橋の表情は隠れて見えず、代わりに一度、わずかに傘が揺れる。

「泉くんが、誰を好きでも、恋人、ごっこでもいいから、俺は、泉くんのそばにいたい」

ふわり、吹き上げるような風が、三橋の傘を押し上げた。やっと見えたその瞳は、まっすぐ、微塵も揺れずにこちらを見据えて、告げる。

「泉くんが、俺の、好きなひとだから」

ああ、逃げ出したのも、逃げ続けていたのも、俺のほうだ。
ようやく、吸い込めた空気が肺を満たした。
不意に雲間からあたたかな光が射して、薄い雨のベールを貫いていく。三橋の目が涙で濡れたようにきらきらと光を弾いて綺麗だった。いや、泣いていたのは自分のほうだったかもしれない。

「ごめん、俺は。俺も、ずっと、ずっと三橋のことが、好きだったんだ」

ようやく絞り出せた自分の声は、まるで歓喜の叫びのように、情けなくかすれていたから。















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150621

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