「海に行こう」


唐突に田島はそう言った。
暮れかけた陽が地平の端を舐めている。濃く、身を焼くような茜色。三橋は田島を振り返る。
この通学路の近くに海は無い。道を辿ればそれぞれの家に行き着く別れ道で、田島は自転車のサドルにまたがる。そのまま、勢いよくどこかへ向けてペダルを踏んだ。深く、速く。
たちまちに遠くなる背中を三橋も慌てて追いかける。耳元でひゅうと風が鳴く。冬の終わりの風はまだ少し冷たい。

辿り着いた先は、海ではなく広い川だった。


「川、だよ」


思わず小さく呟くと、田島は「海に続いてるからいいんだよ」と明るく笑った。鷹揚なその言葉がひどく田島らしくて、三橋はわずかに目を細めた。
河川敷に自転車を倒し、二人で水際まで歩く。春へと向けて色を濃くする草の匂い。ごうごうと流れる川に飲み込まれそうな錯覚を起こす。


「大丈夫か?」


水音にも掻き消されない、はっきりとした声が届く。川岸で見る田島の背中は小さく見えた。

三橋はその背中から視線を外し、目を伏せた。
骨格も背丈も違うのに、まるで当然のことのように泉の背中を思い出してしまう。健やかな肩胛骨、薄く、けれど確かについた筋肉の厚み。その筋肉が動く感触や温度までもが、脳の隅々に染みついていた。

川の向こうに夕陽が溶ける。大丈夫なんかじゃ、ない。


「俺は、大丈夫、だよ」
「ホントに?」


ゆっくりと、田島が振り返る。逆光でその表情は上手く読み取れない。
川面でキラキラと弾ける夕光がきれいで、またわずかに目を細めて三橋は笑った。ここに泉がいたら何と言うだろうか。夕陽に川が深く赤く染まっている。
きっと泉は同じように目を細めて、きれいだな、と隣で微笑んでくれる。やわらかな声でこの鼓膜を震わせて。屈託の無い笑顔で。
もう、その隣に並ぶことは、恐らく二度と無いのに。

大切だった。大好きだった。忘れたい。忘れたくない。
ごうごうと響く川の音に誘われるまま泣いてしまいたかった。

田島の腕が伸ばされる。
熱い手のひらが三橋の手の甲を包む。大きくて、少し湿った手のひらが。


「三橋」


田島の胸板に、頬はやわらかくぶつかった。
強く引き寄せられて、あっさりと腕のなかに閉じ込められる。田島の腕も、胸板も熱い。視界を遮られて夕陽が消える。


「泣けよ」


田島の声が降ってくる。
田島のほうが泣き出しそうな声音だった。腕のなかでそっと三橋は笑う。
ゆっくり、首を横に振りながら見上げると、田島はやっぱり泣きそうな目でこちらを見下ろしていた。


「泣かない、よ」


風の音と水音で掻き消えそうな声だったと思う。
それでも、至近距離にいる田島の耳には消えずに届き、田島は少し顔を歪めた。

泉の腕は田島のものよりもほんのわずかに逞しく、けれど同じように熱かった。
抱き寄せる腕のしなやかな動き。背中に回される腕の熱さ。背筋をなぞる指先。身体の細胞のひとつひとつに刻み込まれている、その全て。
泉はいつも愛しげに、優しく口の端を上げていた。全てが終わってしまった今も、あの時間に嘘は無かったと、そう思う。


「忘れられんの?」


田島の声は擦れている。

最後はあっけなく訪れた。最初から、非生産的な関係だとはお互いに知っていた。はっきりとした別れを告げはしなかった。ゆるやかに、静かに、恋愛関係は友人関係へと移り変わった。氷が溶けていくように、冬から春になるように。
今でも学校では常に一緒に過ごしているし、日々の生活にほとんど変化は無かった。穏やかに日々は過ぎていた。

終わったのは、泉と二人きりで過ごした蜜のような時間だけ。


「忘れないよ」


田島の心臓に向けて呟く。
終わっても、一度も泣いたりはしなかった。泣けば本当に終わってしまうような気がした。

忘れない。
身体に染み付いた全てを今も覚えている。大切だった。大好きだった。忘れたい。でも、忘れない。


「忘れないよ、全部」


慰めてくれる気持ちが嬉しくて、腕のなかで微笑んだ。田島の鼓動は早かった。
河川敷を吹き抜ける風がぐしゃぐしゃに髪を乱していく。強く、激しい風に思う。もうすぐ、目が覚めるほど眩しい春が来る。ひとつの季節が終わりを告げる。

嘘でも「忘れる」とは言えなかった。大切だったから。大好きだから。
この感情は幻でも過去でもない。幻ならば、こんなふうに胸は痛まない。


「そっか」
「うん」


そう言いつつも、田島は腕を解こうとはしなかった。田島なりに気を回してくれたのだと思って、「ありがとう」と告げて小さく笑ってみせる。田島は、ひどく苦しげな笑顔を返した。

熱い腕のなかで泉の腕を思う。最後に、泉は「いつまでも俺は、好きだ」と擦れた声で、そう言ってくれた。それだけでもう十分だ。
心臓の痛みが増していく。常に付きまとうその痛みを、今では心地よく感じていた。
きっと、このまま全てを忘れない。季節を止めて、痛みを抱えて生きていく。


泉くんは苦しんでなければいいなぁ、と思いながら目を閉じた。

どうか。どうか彼の上には、やわらかな春が訪れますように。



















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title by「サイハテ」



10.0319

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