泉孝介、という黒い文字を三橋は指先でなぞる。名簿の上の無機質な文字を。
授業を見ている限り彼は不真面目な生徒ではないようだった。教育実習生である自分を質問攻めにすることもなく、気のない様子でずっと音楽室の窓外を眺めていた。

その大人びた態度が一部の教師にはあまり気に入られていないらしい。放課後の音楽室、泉は机の上で広げた楽譜をやはり気のない様子で眺めている。声楽の実技の態度がどうだったとかそんな理由で、放課後までこんなところに呼び出されている彼が少しばかり不憫に思えた。別段、三橋にとって泉は生意気にも不真面目にも見えない。件の教師は会議だからと三橋一人にここを任せて去ってしまった。


「先生」


呼ばれて、自分のことだと気付くまでに数秒かかった。泉に呼ばれたのは初めてだったような気がする。他の生徒は物珍しげな眼で我先にと名前を呼んでくるのに。
先生、と再び自分を呼ぶやわらかなテノールに何故か慌て、急いで手元の名簿を閉じた。気にしたふうもなく楽譜に目を落としたまま、泉は無表情で淡々と続ける。


「何か弾いてよ」
「何か、って」
「ピアノ。弾けるんですよね」


思い出したように敬語になる様子が微笑ましく思えて、こっそりと笑う。気付かれないようにこっそりと。
泉の眺めている楽譜の曲には確か伴奏がついていたはずだ。記憶を手繰り寄せつつ、白い鍵盤に指を落とす。実習で受け持った授業で伴奏した曲だから、旋律は指が覚えていた。

流れ出す平和な音楽。よくある、耳慣れた合唱曲の。
ふと顔を上げると、泉がじっと手元を見つめていた。先程までの無表情はそのままに、しかしひどく熱っぽい視線。思わず、僅かに指先がずれる。

弾き終えるまで、視線はそらされず指へと注がれていた。外からは淡い風に乗って賑やかな声が聞こえる。部活の練習だろうか、賑やかな声援や歓声。
ポン、と最後の音を弾いた瞬間に、まるで合図のようにすっと泉が立ち上がった。床に置いていたカバンを提げて。


「部活だから、行きます。先生には上手く言っといて」


言うが早いか、疾風のように泉は音楽室を出ていった。止める間もない。まぁいいか、とぼんやり思う。どうせ意味の無い補習だったのだから。彼が、今までどうして帰らなかったのかが不思議なくらい。



トントンとまとめたプリントと名簿を手に持ち、職員室へと立ち寄って細々とした報告を済ませ、外へ出た。
目に染み渡るほど高く青い空。音楽室の窓から淡く聞こえていた賑やかな声援が、ここでは鮮やかに聞こえる。一日の緊張や疲れを解す翠の風が吹き抜け、乱れた前髪に視界が一瞬隠れた。


「先生」


覚えのあるテノール。
見れば、フェンスの向こうに相変わらず無表情の泉が立っていた。白い野球のユニフォームはところどころ土に汚れていて、熱心なんだな、と少し驚く。授業中には垣間見られなかった新たな一面。


「野球部、だったんだね」
「うん」


カシャン、と泉がフェンスに右手を掛ける。左手に提げたままのバットがざりっと土を掻いた。二歩分離れた二人の間を爽やかに薫る風が吹き抜ける。


「先生、ちょっとこっち来て」
「え?」
「いいから」


淡々と、やはり無表情のまま泉が言う。彼の右手は今だにフェンスを掴んでいた。まるで急かすように、キイキイともどかしげにフェンスが鳴る。
不思議に思いながらも、一歩半ほど近付いた。腕を半分伸ばせばフェンスに届く距離。意味も分からないまま、不思議と心臓が鳴った。緊張ではなく、どこか心地よい高鳴り。


「もう少し」


珍しく焦れたように泉に言われ、更に少しだけ近付いた、瞬間。

フェンスの隙間から伸びた泉の指がスーツの布地を捕らえる。そのまま力強く引き寄せられて、手をつく間もなく金網に頬がぶつかる。

冷たい金網の感触と、それから頬に、柔らかな唇の感触。


「いずっ、みくん」


慌てて顔を上げると、いつも無表情だった彼は心底楽しげに、ニヤリと意地悪く笑っていた。


「先生、俺の名前覚えてる?」
「いずみ、くん」
「そーじゃなくて、下の名前」


言われて、記憶をたぐりよせる。先程まで見ていた名簿には確か、


「孝介、くん」
「上出来」


泉は満足気な表情で、今度は嬉しそうに鮮やかに笑った。
取っ付きにくい無表情よりも笑顔のほうがずっと似合うと、ぼんやりそんなことを考える。


「またな、廉センセ」


そう言い残し、フェンスの向こう側にいた泉は駆け出していった。残された三橋は一人、熱を残す頬を手のひらで覆う。フェンス越しの口付け。

またな、というやわらかな声が、鼓膜を甘く震わせ続けていた。


























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泉→三橋風味ですみません…!
野球部泉×音楽教育実習生三橋……なんて萌えるリクエスト!ありがとうございました!上手く書けていますように…!


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