「虚数みたいなもんなんだよなぁ」


阿部の言葉が窓からの風に乗って水谷のもとへ届いた。ブリックパックのストローから口を離し、水谷は阿部を見る。口の中に人工的なオレンジの匂いが残っている。阿部は開いた教科書を放置したまま、窓から大きく身を乗り出して空を見ていた。眩しくないのだろうか。


「なにが?」
「お前数学苦手だもんな」
「虚数くらい分かるよ」


あと五分もすれば授業が終わる。自習監督の教師は一足先に自分のクラスへと帰ってしまった。教室内は静かに、しかし確かに騒めいている。
自習用のプリントをコツコツと叩きながら水谷は阿部を眺めた。阿部はまだ窓の外に視線をやったまま、動こうともしない。阿部のプリントはあと二、三問の空白を残し、ただ机の上に在った。白地に並ぶ黒い数字や記号の文字列。


「プリントやらないの?不真面目だなぁ」
「ジュース飲んでるやつに言われたくねぇよ」
「俺もう終わったもん」


サッカーか何かだろうか、外からは大きな歓声が聞こえていた。阿部はまだ窓の外を見ている。ひゅう、と一陣の風がプリントの端をめくっていく。冷たい冬の風。暖房で濁った室内が掻き回される。能面のような無表情を保ったまま阿部が呟いた。


「架空の、想像上の数字なんだよ。存在してもしなくてもいいような。マイナスの平方根」
「なんの話?虚数?」
「お前、鈍いよな。だからいーんだけど」


くるりと阿部が振り向く。
鈍くないよ。現に、阿部が今空を見るふりをしながら誰を見ていたのかも分かっている。
水谷の言いたかったそれは音にならずオレンジの液体と共に飲み下された。振り向いた阿部が小さく笑っていたから。
歯の先に当たったストローがくにゃりと、あっけなく折れた。

外からはまだ賑やかな歓声が聞こえている。恐らくは九組の。
阿部は自分の想いを虚数のようなものだと思っているのだろうか。ひとつだと虚構のままの数字。二乗してもマイナスにしかならない記号。だとしたらそれは酷く悲しいことのように思えた。


「もう少し、楽観してみてもいーんじゃないの」
「無理だよ」


叶ったとしてもマイナスだ、と言いながら阿部はプリントにシャーペンを走らせる。まだ阿部が小さく笑っていたから、それ以上は何も言えなかった。

水谷の知るかぎり、恋愛は阿部の言う虚数のようなものではなかった。もっと甘くて希望に満ちたもの。阿部の抱く想いもきっとかたちはそれに似ているはずだ。どのくらい強く、真摯に三橋を想っているのかにも水谷は気付いていた。阿部はあまり感情を顔に出さないけれど、その分阿部の視線は雄弁だった。


「マイナスかどうか分かんないよ?」
「いいんだよ、マイナスで」


どこか苦しそうな笑顔に何も言えないまま、もうすぐ授業が終わる。胸を巣食う空虚を持て余し水谷はただ阿部を見ている。

外からはまだ楽しそうな九組の歓声が聞こえていた。






























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三橋が出てなくてすみません……!
アベ→ミハシリアス、大好きです。魅力的なリクエストありがとうございました!


10.0308

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