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糸色命先生は不可思議な人だった。診療室でカルテをぺらぺらと捲るその人を、私は受付からちらりと見遣る。今日は外来患者も少なくて随分と暇だ。閑散とした待合室を眺めながらインスタントコーヒーの蓋を開け、すぐに閉める。刹那に鼻を掠めた、薄っぺらいコーヒーの香り。彼も退屈そうにカルテを捲ったり欠伸をしたりしている。

腕がたつのにこんな小さな診療所で医者をしている理由も、過去に何をしていたのかも私は知らない。この診療所に雇われてからもう長いけれど、看護婦の私が糸色先生について知っていることと言えば数えるほどしかなかった。なにやら実家が名家であること、その他幾つか、意外と子供っぽい性格や気性についての細々としたこと。
それから、コーヒー。



「インスタントコーヒーですか」

信じられない、と言いたげな口調で彼は言った。赴任して来たばかりの私はその吐き捨てるような口調に酷く怯えて、小さなコーヒースプーンからはぱらぱらと茶色の粒子が机の上に舞い散った。マグカップに受け入れられるはずだった、薄っぺらい香りの粒たち。
翌日、彼はコーヒー豆とミルを無言で私に手渡した。ミルは随分と年期の入ったもので、言うまでもなくと言うべきかやはり手動だった。取っ手を回すとキィキィ鳴く。少しばかり粉も落ちた。
彼は無表情にそれを眺め、ミルに添えていた手を離す。無造作な手付きだったけれど、それが昨日の謝罪なのだと私は察した。黙ったまま受け取った小さな機械とその豆は香り高く鼻を擽る。豆の入った紙袋には、ブルマンサントスと印字されていた。



不意にパタンと扉が開き、冬の匂いが室内に舞い込む。
声をかける間もなく、外から駆け込んできたその人は袴をひらめかせて受付の前を通り過ぎていく。命先生に酷似した顔立ちの彼が弟だということは知っていた。近くの学校で教師をしているらしい彼はよくこの診療所を訪れる。不出来で不安定な弟でね、と苦々しげにいつか糸色先生がこぼしていた。


「弟さん、来ましたよ」


待合室には他に誰もいないのに、何故だかソファーの隅に鎮座している袴姿の彼を見ながら、診察室の背中へと声をかける。背中は小さく溜め息を吐くように上下した。いつもならば「今日は何味にしようか」などと言いながら、嬉々として薬によく似たラムネ菓子を選びはじめるはずだった。


「どうかしたんですか」
「最近望は虫歯が多いらしくてね」
「はぁ」
「虫歯にお菓子は厳禁だろう?」


困った困ったと机をあさる命先生の背中を見ながら思う。弟の口内事情まで知っているなんて、可笑しな兄弟。


「まだかかりそうですか」


待合室から声を掛けられ、慌ててくるりと振り向いた。外見だけでなく、彼は声まで命先生によく似ている。眼鏡の奥で不安気に下がった眉尻。まだ糸色先生はごそごそと机をあさっているだろう。


「入っていいと思いますよ」
「いいんですか」
「どうぞ」


にっこり。そんな音がしそうな笑顔を顔の表面に張りつけて見せる。


さて、今日もコーヒーをいれようか。











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大変お待たせしてしまってすみません…!超土下座!
アイラブ糸  色兄弟。お気に召していただければ幸いです。

100830




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