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かたんことんと軽やかに進む。路面電車の車窓には膨らみ始めたつぼみが流れる。夕刻の車内は空いていた。かたんことん。揺れに合わせて私の袴の裾も揺れる。

斜め前に座る男子学生がゆったりとした動作で本を取り出す。藤色のカバーが綺麗な、薄い文庫本だった。詰襟の制服の黒とページを捲る指先に私は彼を思い出す。久藤はハードカバーを好んでいた。平素はかさばるからと文庫本を持つことも多かったけれど。

一定の速度でページが捲られていく。静かに、車窓の木々も流れる。外を眺めるふりをしながら、私は男子学生の指先を追っていた。
男子学生は口元に細やかな笑みを浮かべている。ほんの僅かな微笑みが、私に擽ったくも幸せな気分をもたらした。同時に、奥深く仕舞い込んでいた疼きも蘇る。久藤は今何をしているのだろうか。あの日から、あの生徒達が巣立って行ってから、季節は幾つも移ろっていた。この頃はただ望洋と日々を過ごすばかりの身の上にも惜しみ無く陽は降り注ぐ。木々のつぼみは柔らかに膨らむ。

かたん、と電車が揺れた拍子に男子学生の髪がさらりと額へ流れた。私はまた久藤のことを思い出してしまう。





久藤の髪は癖の強い髪だったけれど、風呂上がりにだけはしっとりと柔らかく、扱いやすくなった。私の寝巻の胸元にまだ湿った髪が押しつけられ、乾いた布地が温かく濡れた。いつも久藤はそうだった。風呂上がりの温かい身体で確かめるように、私をきつく抱きすくめた。


「先生、本当に低体温ですよね」
「君が風呂上がりだからでしょう」


そう諫めるように言いながら押し返しても、久藤は笑いながら私の胸元に顔を埋めた。まるで幼児が甘えるように。
可愛らしい、と言えば怒るだろうなと思ったから、いつも私は黙って久藤の髪を撫でた。湯に浸かり、素直になった髪は心地よく指に絡んだ。健やかな、若々しい黒髪。

久藤の髪が乾き始める頃には私の胸元はすっかり温く湿ってしまっていた。しっとり濡れた胸元に久藤は幾度も唇を寄せる。寝巻の布地も久藤の唇も湿り気を帯びていて、私の肌を埋み火のように火照らせた。


「久藤くん、寝巻が」
「濡れちゃいましたね」
「ちゃんと髪を乾かしてください」
「次からは、そうします」


そう言えばそう答えるけれども、ついぞ彼が髪を乾かしたことは無かった。湯上がりにはいつも髪を濡らしたまま私の胸元に頬を擦り寄せた。まるで赤子のような仕草なのに拒めず、ただじっと抱きすくめられていた。
久藤の唇は私の肌を愛しげになぞる。首筋をたどり鎖骨に下りて、再び胸元へと帰着する。胸の尖りをついばまれ、ひゅ、と息を呑んだ。


「脱いでいる間に乾きますよ」


私の肩に顎を乗せ、久藤は耳元でくすりと笑う。嫌味の無い、純粋で無垢な微笑みだった。
帯を解かれながら私は久藤の背中に手を這わす。真っ直ぐな背骨をなぞり上げ、その先の濡れた黒髪へ。
彼の言うとおり、脱いでいる間に全てはいつもからりと乾いた。私の着物も久藤の髪も。





減速する電車が目指すのは馴染みの駅だった。もうじき車窓からはあの学校が見えるだろう。久藤がかつて通い、そして今も私が教鞭を取り続けている学校が。

斜め前に座る男子学生はさらりと髪を揺らし、変わらず読書を続けていた。澄んだ横顔を見れば見るほど苦しくなるのは分かっていた。


『僕だけ、じゃなくてもいいんです』


私を抱きながら、久藤は頻繁にそんな台詞を吐いた。勘違いだと伝えても、淡々と哀しく微笑みながら。何か誤解をされているのだとは分かっていたけれど、誤解を解く努力を私はしなかった。いつか伝わるだろうという無責任な希望を携えて。


電車の座席に背を埋める。
ぽつりぽつり、蝋梅の鮮やかな黄色が車窓を流れる。桜が咲くにはまだ遠い。あの春と同じ景色だなぁ、と思った。証書の細い筒を抱えた久藤の姿が脳を掠める。彼は最後にもどこか哀しげな笑顔を浮かべていた。
私の目は今だにあの笑顔を捉えたままで居る。おめでとう。ありがとう。さようなら。三つの言葉が風に舞う、まだ肌寒い季節の底で。


波のような揺れを残して電車が停まる。男子学生から視線を外し、私はゆっくりと電車を下りる。身を包む風はふんだんに春の気配を含んで、優しく頬をなぞっていく。少し向こうには校門が見える。

卒業して以来、久藤からの連絡はふつりと途絶えた。
ホームに立ったまま、着物の袂から携帯電話を取り出す。ボタンひとつで彼へと繋がる小さな機械を指先で撫でる。
吹く風からは春の匂いがしていた。数瞬考えて、再び携帯電話を袂へと戻した。静かに一人笑って、私は学校へと歩き出す。


きっと今、彼は幸せなのだと思う。あんな哀しい笑みを浮かべる暇など無いくらいに。
きっと、幸せなのだ。






















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10.0313


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