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自分の咳で目が覚めた。

いつも適当な置き方で床に放られている眼鏡を踏まないように、そろりとベッドから足を下ろす。眼鏡の主は先日通販で購入したソファーベッドですやすやと穏やかに眠っている。
外はまだ暗い。


時計の光る短針は二時を指していた。
部屋の深い闇にこほこほとまた軽い咳を落としながら、寝呆けた頭で正岡子規を思い出す。喉に真綿を詰められたような息苦しさ。

あの俳人は結核だったけれど、この喉の痛みはただの風邪だ。
そう見当をつけてから、カチリとコンロのつまみを捻った。寝る前に沸かしたばかりのほうじ茶が小ぶりな薬缶の中ですぐに温められていく。

傷んだ喉に落ちる熱をゆっくりと飲み下しながら、明日の仕事と朝食について頭を巡らせる。
炊飯器のタイマーは掛けておいたし、買い置きのアジの開きがある。あとは簡単に味噌汁でも作ろう。

湯飲みの底に残った最後のひとくちを静かにすすって、暖まった身体を再びベッドへと沈めた。
明日は朝から会議だ。






非可逆リズム






「久藤?インフル対策…じゃなさそうだな。風邪?」

会社の廊下、心配顔で声を掛けてきた木野に、マスクを着けたままひらひらと手を振ってみせた。大丈夫、と答える代わりに。

答えようにも声が出ないので仕方ない。喉はじんと腫れて熱っぽく、刻々と痛みを増している。


「病院行ったほうがいいんじゃね?」


六時に目覚めた時には既に、甘く見ていた風邪はしっかり扁桃腺を傷めて悪化していた。
緩慢な動作でカバンから会議の書類を取り出し、とん、とそれを指先で示せば、察しのいい木野は納得したように頷いた。
ほんとお前は仕事人間だよなぁと呆れた様子で呟きながら。


「せめて午後は有給取れば?顔色ひどいぜ」


今度は逆らわずひとつ首肯する。誰かにうつしても困るし、顔色については自覚があったから。


起こさずに、「仕事に行ってきます」とだけメモを残して置いてきた同居人は、恐らくそろそろ目を覚まして不機嫌な面持ちで焼き魚をほぐしているだろう。

一緒に朝食をとらなかったのは初めてだった。
こんな、体調の悪いところを見せて心配をかけるのは忍びなくて。つい、起こさずに放ってきてしまった。

一人で朝食を食べさせられて、怒っているかもしれない。
風邪がうつってしまってなければいいのだけれど。


上司に呼ばれて足早に去っていく木野を見送りながら、熱っぽくぼやけた頭のまま病院に予約を入れようと内ポケットを探り、携帯を忘れて来たことに気付いた。
それ以前にまず声が出ないのだから電話を掛けても無駄だ。計ってはいないけれど、やっぱり熱があるらしい。ぼけている。

溜め息を吐こうとした喉からは、ただひゅうと情けなく擦れた息が漏れただけだった。












未だ高い太陽が燦々と輝いていて眩しい。
平日の真っ昼間に駅前を歩くのは本当に久しぶりで、体調は最悪なのにどこか浮ついた気分だった。


喉風邪ですね、と至極シンプルな診断を下されたことに安堵しつつ、重たい足を動かしてふらふらと慣れた道をたどる。
「気休め程度ですが」と勧められて吸入器から吸った薬くさい蒸気の効果か、喉は幾分楽になっていた。

一番近いコンビニでポカリでも買って早く帰ろう。


そう思っていたのに。
自動ドアの内側に滑り込んでから、周囲にずらりと並ぶ色鮮やかな生鮮食品を眺める。

いつの間にか寄るつもりだったコンビニを素通りして、無意識にそのまま、スーパーの店内に吸い込まれていた。
習慣って恐ろしいな、と考えつつ手近な棚の蜜柑とグレープフルーツをカゴに放り込む。

当初の目的どおりに青いラベルのペットボトルと、ついでに卵を一パック。


レジの傍でカゴの中を見る。少し迷ってから、なんとなく、新製品のチョコレート菓子を手に取った。食欲なんて欠片もないのに。






「……お帰りなさい」

いつものように、そう一言。
仏頂面で言うなり、彼は僕のカバンと上着を剥ぎ取って、何時にない素早さで空いた腕に寝間着を押しつけてきた。


「早く着替えてください」


有無を言わさぬ口調に渋々と従う。
ごそごそと着替える僕の足元で買い物袋の中身を検分し、彼はまたてきぱきとそれを片付けていく。
卵は冷蔵庫、ポカリと蜜柑とグレープフルーツはテーブルの上。

最後に袋の底から取り出したチョコレート菓子を見て、驚いたように眼鏡の奥の目を丸めてから、更に眉間の皺を深くした。


仏頂面の理由が分からずに戸惑う僕の背を、無言でぐいと彼が押しやる。
抵抗する間もなくベッドに倒され、ぐるぐると厳重に毛布で包まれる。割れ物注意、とラベルでも貼られそうな具合だ。


キッチンへと足を向けた彼は、それからしばらく食器やら鍋やらをいじっている様子だった。
朦朧と霞む目を閉じて、かすかな気配だけを追う。
独り暮らしじゃなくてよかった、と、弱った胸中にそんな言葉がほんの一瞬だけ浮かんで消える。

近付く足音に薄くまぶたを上げれば、ストローとコップを手にした彼がぺたりとベッドの前に座って、相変わらず不機嫌な顔でポカリを差し出していた。


「どうして今朝、起こさずに行ったんですか」


ぼそりと、彼が呟く。
機嫌を損ねている理由はそれだろうか。

喉にしみる液体を流し込んでから、すみません、と謝ってみた。囁くように擦れた音が口からこぼれる。

謝罪の言葉に彼はまた険しく眉を寄せて、蜜柑をひとつ手に取り、つややかな表面に指先を沈めた。
右手でゆっくりと皮を剥く彼の、口角の下がった唇が小さく開かれる。


「今朝、お茶を沸かしていたら熱湯が手にかかったんです」


唐突に過ぎる言動だった。
深刻なその表情に思わずベッドから起こしかけた身体は、白い手に強く阻まれる。肩を押されて布団に沈む。
畳み掛けるように彼が鋭い声音で言いつのる。


「アジの背骨が喉に刺さりました。あと、さっき小指をぶつけて今も痛いです。折れたかもしれません」


小指のことは大袈裟だとしても火傷と喉は大丈夫なのか、と焦って開いた僕の口に、ぎゅう、とオレンジ色の果肉が一房押し込まれた。
ふわりと鼻先を爽やかな香りが掠める。


どうして貴方は言わないんですか。
ぼそり、また彼が呟いた。


「変な遠慮しないでください。体調が悪いの、隠さなくったっていいじゃないですか」

「すみません」

「心配くらいさせてください」


住まわせてもらっているのは私なのに、しかも自分の体調が悪いのに、こんなものまで買ってきて!と、チョコレート菓子を目線で示しながら、彼はまた蜜柑を乱暴な手つきで摘む。

不器用なその指先が白い筋を丁寧に除いていくのを、ふわふわと思考の定まらないまま眺めていた。


「どうして僕が体調崩してるって知ってたんですか?」

「夜中に咳き込んでいるような音が聞こえて。それに、朝起きたら携帯も置き忘れて行っているし、味噌汁の味付けは濃すぎるし。嫌でも分かります」

「火傷は、大丈夫なんですか」

「痛くも痒くもありません。私のことより自分の心配をしてください」


再び口に押し込まれた水気の多い果肉は、袋も筋も残さず綺麗に剥かれていて、ほろりと口内でほどける。
胃は少し抵抗を示したけれど、抑えてごくりと嚥下した。危惧した不快感は訪れず、熱をもって乾いた身体が潤っていくようで心地好い。


すみません、と言いかけてから、か細い声で「ありがとうございます」と言い直した。
帰宅してからずっと刻まれていた皺がようやく彼の眉間から消える。



面倒なことは多いけれど、二人暮らしも悪くない。ずれた布団を喉元まで引っ張り上げながら、なんとなく暖かな気分になっていた。
柑橘類の涼やかな香りが淡く室内に満ちている。




















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×より+に近いシリーズ。微妙な距離感がでていますように!
看病ネタ、好きです。



091217




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