泉孝介は疲れていた。
疲労困憊。手足はまるで使い古された雑巾のように、指先までたっぷりと疲労に浸されている。今自分の腕をぎゅっとしぼってみたならば、きっと大きなしずくがぼたぼたとこぼれ落ちるだろう。
朝から晩まで二十四時間、コーヒーだとか栄養バランスが売りのゼリー飲料だとか、そんなものを延々と詰め込まれた胃がきゅうきゅうと限界を訴えていた。
こんな日は早く家に帰って、熱いシャワーを浴びて冷たい飲みものを飲むに限る。あまくて、ぱちぱちと弾けるサイダーがいい。想像するだけで、ごくりと喉が鳴った。氷をたくさん入れて飲んで、それからすぐにベッドに潜りこんで寝てしまうのだ。自室のベッドの、何日も干していない布団すら、今の泉にはまるで桃源郷のように思えた。

右足と左足を機械的に動かし、かろうじて家路をたどっていく。街灯から街灯へ。スポットライトのような街灯の光のなかから暗闇へと足を踏み出す瞬間に、毎回ひどく目がくらみ、足元がおぼつかなくなった。
吐く息はまだ白く、春がもうそこまで来ていることなんて、とてもじゃないが信じ難い。

ひとつ、ふたつと過ぎて、重たい足がみっつめの街灯の光を踏む。
と。ぼすっ、と鈍い音がして、爪先が何かにやわらかくめり込む。蹴躓いたせいでバランスを崩し、泉はとっさに片膝をついて毒づく。アスファルトに押し付けた膝がじくじくとした痛みを訴えていた。ああ、本当に冗談じゃない。


「……ックソ」


立ち上がって振り向けば、そこにはずいぶんとくたびれた段ボール箱がころがっている。角の部分は湿っているのかぐずぐずに崩れ、あちこち綻んでいるようだ。最近は夕立が多かったし、たった今蹴ってしまったからかもしれない。まあ、どちらにせよ自分にとっては一切関係のないことだ。

とりあえず、忌々しい段ボールをもう一発蹴りとばしてさっさと帰ろう。そう思って近付いた泉の足を止めたのは、段ボール箱の隙間からちらりとのぞく、茶色い動物の耳だった。捨て犬か何かだろうか、それはぐったりとしたまま微動だにせず、寝覚めの悪い想像が脳裏をよぎる。
死体だろうか。
おそるおそるその箱の中をのぞきこんだ泉の目にうつったのは、耳に生えている毛と同色の髪。そして、薄汚れて、血管が透けるほどに青ざめた頬をもつ若い男の顔だった。


*****


例えば、道端に衰弱した動物が捨てられていた、としよう。犬や猫ならば獣医につれていって、それから餌をやるなり風呂に入れるなり、手厚く介抱してやればいい。
しかし、それが動物の耳としっぽが生えている野良人間だった場合――もしかしたら、宇宙人かもしれない。なにしろ、こんな形の生物を見たのは初めてだ――いったい、何をどうすればいいんだろうか。病院は、俺の行きつけの内科でいいのか?それとも獣医か?
疑問符をたくさん浮かべながら、しかし何となく、そいつを家まで担いで連れてきてしまった。あまりにも満身創痍なその様子が、自分と重なって見えたからかもしれない。

その生物は今、泉のベッドを占有したままこんこんと眠り続けている。時折、目の前でぴくりと耳が動く。

「……耳は、作り物、だよな?たぶん……」

一人で呟いた言葉に被さるように、不意に携帯が振動した。ディスプレイに「花井」と表示されているのを確認して通話ボタンを押す。卒業以来あまり連絡を取っていなかったから、珍しいこともあるもんだ、と一人ごちる。

「遅くにわりーな」
「いや、起きてたから」
「田島が久々に野球部メンツで飲みたいっつーんで、俺が幹事押しつけられたんだけどさ」

変わらない関係性に小さく笑う。花井は確か、なんだったか仰々しい名前の生物学系の学科に進学して、今年就職したはずだった。田島とは大学も職種もまったく違うのに、相変わらず田島の世話役かつ良き理解者を務めている。

「っつーわけで、泉の予定聞きたくてさ。来月あたり、どっか空いてる日があれば教えてくれ」
「あー、まだはっきりした予定はわかんねぇから、確認してからでもいーか?今週末にはメールする」
「頼む。ありがとな」

ふと、ベッドの上で寝息をたてる男に目をやる。

「ところで花井、全然関係ない話なんだけどさ」
「なんだ?」
「動物の耳が生えた人間、とか、見たことある?」

言ってから、少し後悔した。脈絡もなにもあったもんじゃないし、とにかく内容がファンタジーすぎる。疲れてるんだろう、とか気づかわれて終わるのがオチだ。そう、予測したのに。

「あるよ。『One』だろ」

あっさりと、あまりにもあっさりと発言されて目眩がした。

「なに、それ」
「お前、ニュースとか見ねーの?」
「見ねーよ」

少なくとも、俺の目にしたニュースには、そんな珍妙な記事は載っていなかった。
大学時代の知識しかねーけど、と前置きされて始まった花井の解説によれば、『One』というのはファンタジーでもなんでもなくて、過去のいきすぎた科学実験による産物らしかった。外見はほぼ人間だけれども、頭部にオオカミ科に似た耳――早い話が犬耳みたいなやつ――が生えている。また、まれに尻尾を持つやつもいるらしい。布団のはしからのぞく、ふさふさした尻尾からすると、俺が連れて帰ってしまったのはどうやら珍しいタイプのやつらしい。加えて、嗅覚や聴覚の鋭さだとか、従順さだとか、そういったオオカミやイヌの性質を引き継いでいるものも多い、という。

「まあ、それは個体差があるけどな。俺も、写真やデータでしか見たことないし」
「珍しいのか?」
「珍しいっつーか、いわゆるタブー扱いだよ。繰り返しちゃいけない過去の事、みたいな。あれは、人体実験の産物だから」

今も存在はしてるらしいけど所在はわかんねーし、どっかに隔離されてんじゃないかな、と花井は続けた。
そんな生き物がなぜ、あんな道端に捨てられていたのだろう。唐突に得た情報と現状に思考が追いつかなくて、思わず抱えた頭が鈍く軋む。
どうして突然そんなことを訊くのか、と訝しむ花井を適当にごまかして、泉は通話を終えた。
依然として、ベッドの上には耳つきの人間がいる。花井の情報が正しいならば、『One』と呼ばれる生き物が。
おそるおそる耳に触れた。
瞬間、

「っ!!!!!」

バシッと弾かれるような衝撃が泉の身体に走り、脳が強く痛む。
同時に、ベッドの上の生物はぱちりと目を開いた。耳の毛と同じく色素の薄い眼球が、素早くこちらを捕捉する。目が合った刹那、心臓が握り潰されるように収縮し、激しい痛みに息が詰まった。

(かなしい、さむい、いたい、たすけて)

細い風のような感情が、身体をぐるりと駆け抜けて消える。
思わず目を見開くと、目の前の男は驚いたように肩を揺らした。同時に、その頭部についた耳がぺったりと伏せる。

「……おはよう、ござい、ます」

おずおずと言葉を搾り出しながら、犬耳の男は柔らかそうな尻尾をくるりと丸めた。








「こ、こは、」
「ここは、俺の家だ」

犬耳の男は「みはし」と名乗った。なんだか人間くさい名前だなぁと変な感想を抱きつつ、とりあえず牛乳を注いでやる。
みはしはコップに鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる。まるで、犬を餌付けしているみたいだ。まぁ、その通りの状況だけれども。
ようやくこくりと一口飲み込んだみはしが、ばふっと尻尾の毛を逆立てる。

「こっ、これ!」
「?」

牛乳が古くなっていただろうか、と一瞬焦ってみはしを見れば、その目は驚くほどきらきらと瞬いていた。
「おいしい、ね!」
「お、おお。なら良かった」

口のまわりを盛大に白く汚しながら夢中で牛乳を飲む「みはし」を眺めながら、泉はひとつ息を吐いた。
この奇妙な生き物は、存外悪いやつではなさそうだ。








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昨年の 猫の日に書いていたのですが、なぜか書いているうちに犬の話になりました



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