初心に戻るために

「…」
「…あんだよ。」
「いや、それは俺のセリフだから。」

朝、いつもと同じように部室で出会った笠松に、森山は目を怪訝そうな顔を向けた。
彼のスポーツバッグの隣には、明らかに見慣れないものが立てかけてある。

「…何、とうとう軽音部でも始めんの。」
「バカ言うな。」

だよな、と少しほっとしながらも、目線はそれから離れない。

一度笠松の家に遊びに行ったときに見せてもらったそれは、
森山の記憶が正しければ、中身はギターだったはずだ。
運動部の自分たちには、ほとほと縁のないものだと思っていたが。

笠松がそれを趣味としているのは知っていた。
だが、なぜそれが今学校にあるのか?

「何で、ギター?」

森山の問いに、笠松は少し言いよどんでから答えた。

「…約束が、あるんだ。」

△▼△▼△▼△▼△▼

笠松から一方的な約束を取り付けられた心は、
一人で音楽室にたたずんでいた。
他のメンバーは今日は既に帰宅していて、残っているのは彼女だけ。
薄暗い音楽室に、外の街灯の光がぼんやり浮かぶ。

目の前には、フリューゲルのケース。
馴染みすぎたそれは、自分が開くのを待っているかのようだった。

『6時半に、まだ楽器吹く気があったらここに来い。フリューゲル持って。』

笠松の言葉を思い出して、ちらりと目線を時計へやる。
現在、6時ちょうど。
楽器の用意をして温めてから出ようと思うと、そろそろリミットだ。

楽器は吹きたい。
何があっても、音楽自体を嫌いになることはできなかった。
だから、自分は今フリューゲルを吹いているのだ。
部活をやめることだって、できたのに。

「…勇気を貸して、おねがい。」

きらきらと光りを反射する相棒にすがるように手を伸ばす。
少し躊躇したものの、当たり前だが触れるのは簡単だった。
一度触れてしまえば、もう怖がるものはなくて。
手早く用意をして軽く音階とロングトーンをこなす。
いつもよりも短くなってしまったのは、この際仕方ない。
時計は、約束の5分前。
心は、ぎゅっとそれを抱いて、音楽室を後にした。

△▼△▼△▼△▼△▼

心が約束の場所に近づくと、いつも自分が練習している場所に人影。
薄暗くてよく見えないが、笠松で間違いないだろう。
近寄っていくにつれて、馴染み無い音が小さくなっている。

「笠松くん…?」
「ん、おお。」

今回は来ることが分かっていたからか、過剰な反応はなかった。
座っている場所をずれて、そこへ心を促す。

「ちょっとだけ待ってくれ。俺も今来たとこだから。」
「うん…」

円形の笛のようなものを吹きながら、ギターのチューニングをいじる。
自分ももう少し吹こうかと思ったが、チューニングの隣で、しかも金管楽器を吹くのは憚られた。
おとなしく隣でそれを眺めていると、最初は何食わぬ顔でそれを咥えたままギターをいじっていた手が止まった。

「…?」
「あんま見られっと、その、やりにくい…」
「あ、ごめんなさい。」

ぱっと顔をよけて、無意味に水抜きをしてみる。
少しして、笠松が笛から口を離す。

「いいの?」
「ああ。」
「さっきの、なあに?」
「ん、これか?」

手のそれを器用にくるくる回して、言う。

「ピッチパイプだ。チューナーみてぇなもんだよ。」
「へぇ。」

初めて見るそれに興味津々な心。
笠松は小さく笑いながら、ピッチパイプを横に置いて1枚の紙を差し出した。

「え、?」
「俺がよく練習に使ってた曲なんだ。難しい曲じゃないし、メロディーだって音域そんな厳しくないだろ。」

そういいながら、笠松は自分と心の間に譜面立てを置いた。

「どこから、」
「音楽室から拝借した。後で返しとくから、気にすんな。」

譜面立ての左半分には、笠松用のギターの譜面。
促されるままに心は右側に今渡されたばかりのそれを置いた。

「メトロノームはないから、適当に合わせろよ。」
「う、うん…」
「構えろ。」

心が楽器に口をつけたのを見てから、笠松がギターを軽く叩いて4拍を取る。
合わせるように深く息を吸い込んで、初見の楽譜を追った。

最初は多少の緊張もあったからか音も固かったが、進むにつれて音が伸びるようになっていく。
慣れたように自分の楽譜を追う笠松は、心の奏でるメロディーにまた小さく笑った。

最後まできっちり吹ききった心は、ややあってから楽器を下ろした。
自然と溜息が出る。

「吹けんじゃねぇか。」
「え?」
「俺とお前しかいないとはいえ、メロディーが1人ならソロだろ。」

言われて、やっと笠松の言わんとすることが分かった心は目を見開いた。

「まさか、そのためにわざわざ…?」
「俺は管は完全に専門外だからな。よくわかんねぇが、俺はお前の音、嫌いじゃねぇよ。」
「笠松くん…」
「最初にここへ来たときも、お前の音に引き寄せられてきたんだ。もっと自信もて。」

するりとフリューゲルのベルを撫でる笠松。
今までで一番近い位置にあるが、彼は特に気にしていないようだ。

「次は絶対大丈夫だ。逃げるな。」
「…」
「別にソロが吹けるからどうとかじゃねぇんだ。ただ、自分が好きなことから目を背けるな。今を越えてった先には、絶対に何にも変えがたいものが待ってる。」

「な?」と微笑まれて、心はフリューゲルを見る。

「…もう一度、こたえてくれるかな。」
「あぁ、お前が捨てなければな。」

手を離した笠松は、さっきとは別のピッチパイプを差し出した。

「…?」
「お前に貸してやる。」
「え、」
「俺がギター始めた頃に使ってたんだ。鳴りが悪くなったから変えたんだが、俺にとっては、初心を忘れないためのものだ。」
「初心…」
「お前も、初めてこいつを手に取った時の事思い出してもう一度頑張ってみろよ。」

心はそっとそれを受け取って、ゆっくりと頷いた。


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