沈んだ銀色と黒

数日後、葛葉はまたあの時と同じ植え込みに座っていた。
カチカチと鳴る手巻き型のメトロノームが、ゆっくりとテンポを刻む。
譜面を自分より少し低い位置へ配置し、楽器を構える。

響くのは、息継ぎの合間を見つけるのも難しいような延々と続く連符。
一通り吹き終わると、目盛りを1つ下げる。
少しだけ早くなったテンポに、また同じフレーズを吹く。
終わるとまた目盛りを下げ、最初から吹いて、を繰り返していたが、
とあるところで彼女の指がもつれた。
間違えたらまた最初から吹きなおすが、毎回どこかしらで音を外す。
一度楽器を置いて、傍にあったペットボトルをあおった。

あいつの表情には、悔しさというよりは焦りの方が色濃く表れていた。

「な、ぁ。」
「!」

思わず少し離れた所から声をかけたが、初っ端から言葉が喉に引っかかった。
が、彼女は俺が話しかけて来た事に驚いていてそんなことは気にもしていないようだ。

「笠松くん…」
「何、焦ってんだ。そんなに。」

片言になりながらも尋ねると、葛葉は目を見開いた。

「え、」
「違ったか?」

俺の問いに、少しもごもごした後傍らの銀色へ目線を落とした。

「音に、出てた?」
「いや、お前の顔が、焦ってたから。」

ここで音が、って話ができればよかったのかもしれないが、生憎俺はそこまで詳しくない。
下手に嘘をつくよりは、と、正直に答えた。

「そ、か…」
「どうしたんだ、こないだ会った時は、そんな顔して吹いてなかったろ。」

少し慣れて来た俺が尋ねると、今度はゆるりと譜面を見る。

「…次の演奏会で、ソロ吹くの。」
「すげえじゃねぇか。」

あの時の教室での押し問答はこれだったのだろう。
だが、仲間にあれだけの信頼を向けられて任されたソロを、こいつはあまり喜んではいなさそうだ。

「…私、もともとトランペットにいたの。」
「は?」
「あ、パートね。トランペットパートの、パートリーダーだったの。」

パートリーダー、というのがどういうものなのかはよくわからないが、
恐らくはその楽器のメンバーを纏める役をそう呼ぶのだろう。

「(こいつが、リーダー…)」

目の前で心底困ったというように眉を寄せる彼女を見て、あまりにも意外だと思った。
紛いなりにもバスケ部を束ねる俺からすれば、申し訳ないが彼女は人の上に立つ器ではないように見えた。
キャプテンシー、とまではいわないが、そういう人を引っ張る力があるようには思えない。

「意外、って思ったでしょ。」
「は、」
「いいの。私も、思ってたから。」

否定する前に、先に肯定されてしまった。

「…今は、違うのか?」
「え?」
「「だった」って言ったろ。」

まだ新体制になってから2か月ほどしか経っていないこの時期に既に過去形。
彼女がパートを率いていた時間は、あまりにも短いように感じた。

「…去年の、冬まではそうだったの。」

ぽそり

俺に届くか届かないかというほどの声で呟かれた言葉。
一体どういうことなのか。
尋ねようとしたところで、中庭の向こうから葛葉を呼ぶ声がした。
ぱっと顔を上げた彼女は慌てて譜面立てと楽器を手に取った。

「ごめん、もう行くね。」
「あ、あぁ。」

ぱたぱたと足音をあげて去っていく彼女の背中を、俺は何となくぼんやり見ていた。

△▼△▼△▼△▼△▼

次に葛葉と1対1で会ったのは、丁度1か月後。
場所は全く同じだったが、その場に存在したのは、彼女だけだった。

「…今日は、相棒は一緒じゃないのか。」

植え込みの上に膝を抱いて座り込む葛葉。
俺の声に反応して少しあげた顔は一瞬しか見えなかったが、間違いなく涙で濡れていた。

「は、」
「…ごめん、ちょっとほっといて。」

思わずたじろいだが、下がりそうになった足を気合で戻した。
少しその場で待ってみたが、それ以上なにも言う気配がない葛葉に
俺はあるだけの勇気を振り絞って、彼女の隣へ腰を下ろした。
…それでも、距離はそこそこあるが。

「…なに」
「……流石に目の前で泣かれて、放って行く訳にも、いかねえだろ。」
「…」
「何があったんだよ、音楽に関しては素人だけど、話聞くくらいはできるぞ。」
「……」
「他人に話して楽になることだって、あるだろ。」

嫌なら無理には聞かねえけど、と付け足すと、彼女は苦しそうにゆっくり息を吐いた後
涙を声にまでにじませて言った。

「本当…笠松くんは、いい部長さんだよね。」
「は、?」
「私は、他の子たちの声、ひろえなかった、から」

一体何の話だと首を傾げると、葛葉はそのまま続けた。

「私、去年先輩たちが引退して、トランペットのリーダーを、引き継いだの。
 前のリーダーは、私が一番適任だって、言ってくれた。」
「ああ。」
「うち、冬には、アンサンブルの、コンクールがあって、
 金管は、毎年八重奏が本戦へ出てたの。」

相槌を打たなくなった俺に、彼女は途中で用語の解説を入れながら話をすすめた。
要するに、吹奏楽部には俺たちと同じように年2回大きな大会があるらしい。
夏のコンクールは、大編成と呼ばれ、よく映像として出るような30人以上の大人数が
一つの舞台へ乗る。
夏が終われば3年生は引退で、その後の冬の大会は1,2年だけで出場する。
それは4〜8人ほどの少人数で組まれた編成で予選会をして、選ばれた3チームが本戦、
つまりはコンクールに出られるのだそうだ。
金管八重奏は、それの第一選抜の常連だった。

「毎年、選ばれた8人がそこへ入るの、私も、そこへトランペットで入ってた。」
「すごいことじゃねぇか。吹奏楽部、人数多いだろ。」
「…でも、私はそこで、絶対やっちゃいけないことをした。」
「やっちゃいけないこと?」
「メロディーラインを、外したの。」

ぎゅう、と膝を抱く手に力が籠る。

「チームの人たちが、私の力を信じて託してくれた楽譜だった。確かに連符ばかりで
 難しい楽譜だったけど、練習では外したことなんてなかったの。」
「…」
「予選会の日、たまたま、同じ八重奏に出てた子が、私にメロディーがあたってるのが気に食わないって言ってるのを聞いたの。」
「!」
「歴代金管八重奏で受け継がれてきた曲で、メロディーはいつもずば抜けて上手な先輩たちが吹いてた。私も、その楽譜に恥じないようにって、たくさん練習した、つもりだった。でも、だめだった。」

すこし止んでいた潤んだ声が戻ってくる。

「色々ぐだぐだ考えたまま予選会に臨んで、案の定盛大に楽譜を間違えた。誤魔化しも、きかないくらい。」
「……」
「私に不満があったその子には、大分責められたよ。自分ならこんな事にならなかったって。予選会はぎりぎり突破したけど、そんな状態でいい演奏なんてできるはずなくて、私たちは初めて金賞を逃した。」

聞けば聞くほど、自分を見ているようだった。
去年の夏、俺のせいで落としたIH。
先輩たちはおおっぴらには言わなかったが、俺を疎ましく思うメンバーもいただろう。
それに耐えられなくなって、一度は退部届まで書いたのだ。
彼女の気持ちは、痛いほどよくわかった。

「それから、私はリーダーを降りて、楽器も元々持ち変えで吹いてたフリューゲル1本に絞った。目立つメロディーラインはできるだけ当たらないように、ソロが回ってくることは、絶対ないように。」

彼女の言葉に、俺は違和感を覚える。

「でも、お前ソロの練習してたろ。」
「…先週の演奏会で、いつもソロを吹いてる子がどうしても抜けなきゃならなくって。その穴を、私が埋めたの。」

埋めきれなかったけど、と苦しそうに吐き出された声に、彼女の演奏はうまく行かなかったことを悟った。

「怖くなって、ピストンを押す手が震えて、最後の最後で連符が間に合わなかった。今回はすぐに他の楽器の和音が入ったから、ギリギリ露呈はしなかったけど。」
「…今日は、練習しねぇのか。」
「手が、フリューゲルを持ちたくないって拒否するの。」
「…」
「このままじゃ、私、ソロどころか、楽器が吹けなくなっちゃう…」

しゃくりあげるように泣き出した葛葉に、俺は1つ案を出した。

「明日、ちょっと遅くまで残れるか。」
「え…?」

そろそろ俺もバスケ部へ出なくちゃならない。
腰を上げて、彼女を見下ろした。

「6時半に、まだ楽器吹く気があったらここに来い。フリューゲル持って。」
「笠松くん…?」

俺はそのまま、木陰を後にした。


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