朝練が終わる頃に合わせて登校した戸田は、体育館から教室までの道のりの間ですら
森山から離れようとはしなかった。
いつもならギリギリまで練習してからいくものの、フェミニストな森山には女子を待たせるわけにはいかないという気持ちがあるらしく
10分ほど早く切り上げて戸田の横へ並んで教室へ向かっていった。

湊は昨日と同じように背中を見つめていたが、昨日とは大分気の持ち様が違った。
負けない。
たとえかなわなくても、彼女だけには。
ぎゅっと手を強く握りしめて、他のメンバーのタイムキーパーへ戻る。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「ね、森山くんさ。」
「ん?」

戸田との事があってから、満足に湊と会話していないな。
湊の柔らかい笑顔を思い出して恋しくなっていると、横から戸田が話しかけて来た。
急いで取り繕ったが、どうやら戸田は気が付かなかったらしい。
そのまま話を続ける。

「宮地さんに彼氏がいること知ってて、ずっと好きなの?」
「…え?」

目を見開いて、聞き返す。
思わず止めた足に、何歩か向こうで彼女も自分を振り返った。

「昨日、ここの最寄り駅で見たんだ。背の高い超イケメンと会ってるとこ。」
「…彼氏じゃないかもしれないだろ。」
「宮地さんから走り寄って行って、抱き着いたりしてたのに?」

森山の手が無意識にゆるく握りこまれる。

「こんなこと言うの卑怯かもしれないけど、叶わないってわかってる恋するよりは、私の方がいいんじゃないかな。」
「…」
「ほら、恋は自分の方が好きになった時点で負けるっていうじゃない。」

にっこり笑う戸田を見て、心がざわつく。
自分が求めているのは、彼女じゃないのが分かっているのに。
彼女のいう事にも一理あると思う自分がいる。

今までも言わなかっただけで、ずっと付き合っている相手がいたとして。
そいつへの勝率は限りなく0に近似することは、森山だってわかっていた。
万が一にも仮に湊と付き合えても、自分の方が好きなのは火を見るよりも明らかだ。
同じような思いを続けるなら、いっそ、ここで

妥協

そんな単語が頭をよぎった。
森山は何も言わずに教室へと歩いて行った。

3年間笠松を見てきて、諦めの悪さだけは人一倍ついたと思っていた。
なのに、それもただの思い過ごしだったようだ。

あまりにも女々しい自分にも、何かと理由をつけて湊を諦めようとしている自分にも
吐き気がした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

昼休み、森山は来なかった。

「…来ないですね。」
「戸田に捕まってんだろ。」
「でしょうね。」

気に留める様子もなく箸を進める湊に、小堀が問うた。

「湊はいいのか?」
「何がです?」
「このままだと森山、戸田と付き合っちゃうかもしれないんだぞ?」
「もし付き合ったとしたら、別にそこまでってことです。」

事もなげに紡がれた湊の言葉は嘘ではない。
ただ、何もせずに決着がつくのを待つのはやめたのだ。
彼女の邪魔をするつもりはない。
自分のやり方で、森山を少しでも振り向かせてみせる。
ほぼ負け試合だと思っている湊にとって、森山の心を少しでも戸田じゃない何かに傾けさせることができればそれでいいのだ。
少しでも、躊躇する理由になれば、それで。

背後でいつものように髪をいじっていた早川が、黄瀬にバトンタッチする。
ポニーテールに纏められたそれが、どんどん形を変えていくのが分かる。

「本当、お前器用だな。」
「海常祭も任せてくださいっス!」
「涼太くんやってくれるの?」
「勿論!世界一のオヒメサマにしてみせるッス!」
「オヒメサマは由孝さんでしょ?」

くすくす笑う湊に、もう迷いや躊躇は見られなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

午後の授業が始まる時間が迫ってきて、一同は揃って体育館を出た。
渡り廊下へさしかかったところで、湊が足を止める。

「湊?」
「どうした?」
「机の上に筆箱おいてきちゃったみたいです。」
「珍しいな、お前が忘れ物なんて。」
「一緒に行こうか。」
「平気だよ、先行ってください。」

5人の背中を見送って、湊は1人元来た道を戻る。
中村が女子のような事を言っていたが、何だったのか。
ふと考えながらドアを開けた瞬間に、彼の意図がわかった。

「…由孝さん。」
「湊、」

いつもは戸田と一緒にいるようになったため、2人で会うのは久しぶりだ。

「今日は来ないのかと思ってたんですけど。」
「ちょっと、忘れ物取りに。」
「一緒ですね。」

机の上に放置しっぱなしになっていた筆記用具をまとめて、日誌を閉じる。

「さて、そろそろ行かないと午後の授業に間に合いませんよ。」

何食わぬ顔で部室のドアを開けようとドアノブに手をかけた時。
森山の手がノブを引いて、また部室を2人きりの密室へ戻した。

「由孝さん?」
「…湊。」
「なんでしょう?」

首を傾げて尋ねる湊に、森山は静かに言った。

「いくつか、聞きたい事あるんだけど、いい」
「構いませんよ。何でしょうか?」

森山を振り返ろうとした湊の肩を押して、またドアの方へ向き直させる。

「そのままで。」
「はぁ…」

不思議そうな湊だったが、言われるがまま顔を灰色のドアの方へ向けた。

「で、聞きたい事って?」
「……湊、好きなやつっている?」

直球でぶつけられた質問に、言葉が詰まる。

「どうしたんです、急に。」
「質問にだけ、答えて。」

静かな森山の声に、逃げるのは不可能だと直感した湊は言われるがまま答えを返すことにした。

「イエス、です。」
「……そいつの、どこを好きになったの。」
「私だけ答えるのは、アンフェアだとは思いませんか?」
「…何が、聞きたいの。」
「私も同じ質問を返します。由孝さん、好きな相手居ますよね。」
「イエスだ。…その口ぶり、知ってたんだろ。」
「ええ、まあ。」
「…次。どこを好きになったの。」
「私にはないものを、沢山持っているところです。由孝さんは?」
「…柔らかい、物腰と笑顔。」

静かに続く一問一答。
とうに午後の授業が始まるチャイムはなり終えていた。

「次、私からでもいいですか?」
「何?」
「戸田先輩と付き合うんですか?」

森山があからさまに言葉を詰まらせた。

「…湊は、彼氏がいるって本当なの。」
「今質問してるのは私です。」

振り返って、少し上にある森山の目を覗き込む。

「どうなんです。」
「…湊には、関係ない。」
「なら、私の話も由孝さんには関係ないですね。」

じっと目を逸らさない湊を、森山が顔をしかめて見つめ返す。

「答えれば、湊も答えてくれるの。」
「ええ。」

少しだけ目を泳がせた後、吐き出すように答えを出した。

「……本気で、考えてみようと思ってる。」

ぴくり
湊の肩が揺れる。

「本命の方とは、違うのにですか。」
「知ってるんだろ。本命の方には、もう半分フラれてんだ。」
「戸田先輩なら、由孝さんの事を好きでいてくれるからですか。」
「かなわない相手を想う事がどれだけ辛いか、湊には分かんないかもな。」

ちり

耳元のイヤリングが音を立てる。

「俺は答えた。湊は、どうなの。」
「…」
「彼氏、いるの。」

湊は俯いて森山の胸を押して距離を取ると、拘束が解かれたドアノブを捻った。

「湊!」
「私にも、ずっとかなわない想いを向ける相手がいるんです。」

静かに力強く放たれた言葉が、森山に突き刺さる。

「私は叶わないと分かっていても、自分から目を逸らすことはしないと決めたんです。」
「湊、」
「隣に私じゃない誰かが立つようになるまで、私は諦めません。」

薄く水の張った目が森山を射抜く。
引き留めようとして伸ばされた手は中途半端に止まって空を掴んだ。

「後悔しない道を選ぶと、決めたんです。」

ぐさり、と音をたてて、また言葉が突き刺さった。

mae ato
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