兄
しっかり器具を理科室へ送り届けた湊は、そのままいつものように部活へ向かった。
たしか、今日は黄瀬は仕事で外しているはずだ。
自主練日になっているので問題はないが、オーバーワークをしていないかだけが心配なところだった。
用意をして、体育館のドアを開ける前に目をそっと閉じて手で覆う。
『大丈夫だ、しっかりしろ。』
ちり、とイヤリングをかすめて手を離す。
自分から出ているものでも、清志の声の効き目は抜群だった。
いつもより少し大きめの音をたててドアを開く。
「遅れてすみません。」
「おお、珍しいな。」
「理科担当に捕まってまして…」
「雑用か…」
「はい。」
「そういえば、森山も戻ってこねぇな。タオル取ってくるって出て行ったのに。」
「そろそろ戻ってくるだろ。」
何も知らないふりをするのは簡単だった。
入れ替わる相手を、10分前の自分にしてしまえばいい話。
記憶からあの一瞬だけを切り取ればいいだけ。
湊は顔色を変えずに自分の仕事へ戻った。
数分してから森山が戻ってきた。
「悪い遅くなったー。」
「遅い!!」
「タオルあったか?」
「んー、あれ、湊来てたのか。なら、もう少し待てばよかったなぁ。」
「すみません、遅れてしまって。」
苦笑いと共に謝罪をいれれば、湊が悪いんじゃない、と返ってきた。
「「もう少し待てば湊からタオルもらえたのになぁ」だろ。どーせ。」
「どーせってなんだよ。自分で取りに行くよりは湊からもらった方が嬉しいだろ。」
「わかったわかった。」
「森山ー、ディフェンス練付き合ってー。」
「おー、ちょっと待ってー。」
小堀の声に、森山は手に持っていたタオルを湊へ手渡してゴール下へ向かう。
普段と変わらない背中のはずなのに、さっきの光景がいやでも浮かぶ。
いつもならもう一度目を覆うまでは保っていられるのに。
もう一度目を閉じて手をあてる。
「湊?」
「あ、何?」
手を外すと視界いっぱいに中村と早川。
思っていたよりも詰まっていた距離に、少しのけぞる。
「どうした、大丈夫か?」
「調子わ(る)いのか?」
「ううん、何でもない。太陽の光が入ってきて眩しかっただけ。」
指さす先には、備え付けの掛け時計。
確かに、外の光を反射して光っている。
「ああ、確かに。」
「ここちょうど(光)入ってく(る)んだな。」
「うん。」
目をこすると、中村が少し笑う。
「傷がつくぞ。」
「んー、大丈夫。そいえば、何か用があってきたんじゃないの?」
「あ、そうだった。」
「久しぶ(り)に、(リ)バンの相手してく(れ)。」
「ああ、いいよ。」
待ってね、と一言おいてからジャージを脱ぐ。
綺麗に畳んで隅へよけると、軽く柔軟をして森山と小堀と丁度反対側のゴール下へ入る。
「いくぞ。」
「おう!」
「はーい。」
中村が視線を鋭くしてゴールを見遣る。
SGの彼からすれば、ブロックも何もないシュートを外すほうが難しいらしく、
毎回いつも以上の精度を持ってゴールフェンスへあてている。
ガシャン
重たい音が鳴るより1拍前に湊が跳ぶ。
追うように早川も跳び、ほぼ同時にボールへ触れる。
「っ」
「うおおおおあああ!!!」
取ったのは、湊だった。
片手で自分の方へ引き寄せ、両手で抱え込もうとしたとき、早川が追って伸ばした手が、意図せずに湊へ当たった。
「っわ」
「早川!!深追いするな!!」
「湊っ」
自分でもやばいと感じたのか、名前を呼ぶものの押された湊はそのままよろけながら着地した。
バランスを取りなおすには後ろへの距離が足らず、こけはしなかったものの、その勢いのまま壁へ頭を打ち付けた。
ごん、と鈍い音が響く。
「湊!!」
「湊大丈夫か!」
「ああ、平気平気大丈夫…いてて。」
頭をさすりながらも、ボールを中村へ差し出す。
「おい、平気か。」
先ほどの音と早川たちの声を聞いて、笠松が寄ってきた。
そっとぶつけた頭をさすると、溜息をついた。
「少したんこぶになってんな。」
「大丈夫ですよ。」
「ごめん、湊…」
「本当、大丈夫だよ。気にしないで。」
いつもと変わらない笑顔で返す。
笠松が寄ってきたのを見ていた小堀と森山もやってきてどうしたのかと尋ねる。
事のあらましを伝えると小堀は苦笑いでほんの少し早川に注意を入れ、森山は心配そうな顔で湊へ近づいた。
「大丈夫か?」
「はい、平気です。」
自分でさすっていた手を下ろして、早川の背中をたたく。
「続きやろ。」
「本当に大丈夫か?結構重い音してたぞ。」
「平気だってば。気にしすぎだよ。」
「少し冷やしていた方がいいんじゃないか、保冷剤取りに」
森山が湊の肩に手を置いた瞬間、湊が振り返る。
目を見開いて手を離した森山に、湊は笑顔で再度大丈夫だと伝えると2人と一緒にコートへ戻っていった。
「森山?」
「…なんでもない。」
一瞬のことだった。
振り返った瞬間の湊の目は何時だったかに、それこそ一瞬だけ見た不透明なそれだった。
あの時は入れ替える人格と声が戻らなかったから、そうなっていたはずだ。
今は人格はおろか、声だって彼女そのものなのに、いったいどうしたのか。
思考を巡らせるが、答えは出ず。
小堀と共に練習へ戻るほかなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
練習を終えたメンバーたちと着替えて部室を出る。
ドアを開けた瞬間、湊は一番に出た事を後悔した。
「あ…」
15センチほど下から見上げてきた彼女。
遠目ではわからなかったが、大きな目とうっすらわかる程度に施された化粧がよく似合っていた。
湊と目が合った瞬間ぎゅっと眉を寄せたが、後ろから森山が出てくるとぱっと表情を変えた。
「戸田さん。なんで、」
「一緒に帰ろうと思って待ってたの。」
彼女は、戸田というらしい。
教室での噂の中で聞いた名前と合致したそれに、湊はほんの少しだけ嫌悪感を乗せて目を細めた。
「…戸田さん、部活入ってたっけ。」
「ううん、帰宅部。さっきまで図書室にいたんだ。」
「そ、か。」
嬉しそうに少し頬を染めながら森山の腕を引いて、他の部員へ見せつけるように抱き込んだ。
「ごめんね、森山くん借りるね!」
「え、あ、あぁ…」
唖然とするメンバーに森山が目線を泳がせる。
湊と合った視線を再度戸田へ泳がせると、至極気まずそうにぽつりと言った。
「わるい、お先。」
「じゃあね、小堀くん、笠松くんも!」
驚きのあまり足が動かない一同が見送る中、2人はゼロ距離を保ったまま見えなくなっていった。
ややあってから、中村が口を開く。
「…え、どういう事。」
「お(れ)にも、さっぱ(り)…」
2年2人が3年生を見遣る。
小堀と笠松も互いに顔を見合わせて首を捻った。
「俺らも、わからない…」
「どうなってんだ…」
ただ1人理由を知る湊は、目線を落としてから歩き出した。
「帰りましょう。」
「え、」
「湊?」
「森山さんにだって、「そういう」ことくらいありますよ。」
伸びをして何事もなかったかのように歩みを進める湊に、怪訝そうな顔をしながら続く。
会話はいつもの様に進み、特に変わった様子はなかった。
別れる時も、いつもと変わらない笑顔で3年生には頭をさげ、早川と中村には手を振っていた。
ふたりの気持ちのベクトルは互いへ向いているのに、なぜこんなにもうまく行かないものなのか。
小堀も笠松も掴みかかってすべてを打ち明けたくなるのをぐっと押し殺すのに必死だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ぱちり、と家の電気をつけて、いつものように紅茶を淹れようとケトルを火にかける。
食器棚を開けて自分のカップを取り出すと、2列目へ仕舞っていた森山のカップが目に入る。
思わず動きを止めると、キッチンの方からケトルが笛を吹くのが聞こえた。
何となく手に取ってしまったそれを机に置いて、湯を入れに行く。
ソファへ腰を下ろして、置かれたカップを見ながら一口紅茶を啜る。
落ち着いた色のそれを見ていると、昼からの記憶がよみがえる。
ちり、とイヤリングを触るも、消えないそれ。
ぎゅっと目を瞑っても、手をあててみてもそれは変わらなかった。
どうしたらいいのかと手を外した時、携帯が着信を知らせてなりだした。
相手は、東京の兄だった。
「清兄?」
『おう、元気にやってっか?』
本当に裕也といい清志といい、なぜこんなにもジャストタイミングで電話をかけてくるのか。
「…清兄。」
『ん?』
「明日、放課後暇?」
『あ?ああ…練習終わった後ならな。』
「私出ていくからさ、ちょっとだけ会えない?」
覇気のない声に清志は何かあったことを悟ったが、何も言わずに場所と時間を指定だけして電話を切った。
湊が呼んだのに、わざわざ神奈川まで出ていくと言い切った兄に苦笑いしか出なかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次の日。
部活を終えてすぐに部室を出た。
開けたドアの傍には昨日と同じように戸田が手持無沙汰に携帯をいじりながら立っていて、目が合う。
「…どうも。」
一応、とぽつりと言った湊に戸田は昨日以上に顔をしかめた。
ぱたり。
背後でドアが閉まる。
「貴女、好きな人っている?」
「え?」
急にぶつけられた問いに、一瞬の隙ができる。
彼女は、捲し立てるようにつづけた。
「私は、森山くんが好き。彼が望む理想の女の子を目指してきたつもりよ。」
「理想…?」
「かわいくて、笑顔がステキな、ふんわりした子。」
初めて聞いた森山の好みに、今度は湊が眉をしかめた。
「幸い生まれ持った顔はそこそこに出来てたし、可愛い子がいいならそれを目指した。見た目も、できるだけ柔らかい印象をもたれるように努力した。」
「……」
「きっと彼から見たら全然足りないんだろうけど、でも、精一杯後悔しないようにしてる。」
「…戸田先輩は、そんなことしなくても十分可愛いと思いますけど。」
これは、湊の本音だった。
自分の思う「可愛い」を詰め込んだ彼女は、湊から見ればどんな宝石よりも煌びやかで、眩しい存在だった。
羨望を通り越して、嫌悪感を抱くほどに。
なのに、彼女は更に顔をしかめて湊を睨み付けた。
「バカにしてるの?」
「本心です。」
ぎり、と唇をかみしめた彼女が次の言葉を発する瞬間に、背後のドアが開いた。
「わ、湊まだいたのか。一番に出てったのに。」
「森山くん!」
「ごめん、お待たせ戸田さん。」
「ううん、大丈夫。」
ぱっと表情を戻した彼女は、昨日と同じ様に森山の腕へ抱き着いた。
湊はそのまま何も言わずにその場を立ち去り、清志の待つ駅前のカフェへ向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「清兄!」
「よお。」
ひらりと手を上げる清志は学ラン姿だった。
「学校帰りにそのまま来てくれたんだね。」
「まあな。家帰ってたら遅くなるだろ。」
「ごめんね。」
「来るって言ったの俺なんだから、気にすんな。」
2人でカフェへ入って窓際の席へ座る。
軽い近状報告をしていると、頼んだキャラメルマキアートとアイスコーヒーがやってきた。
毎度間違われるそれの場所を入れ替えながら、清志が噎せ返るほど甘いそれを飲んで小さく息をついた。
「で?俺を呼んだのはなんでだよ。」
「…清兄は、さ。好きな人とかいる?」
「みゆみゆ。」
「3次元の話をしてんだよ。」
「みゆみゆだって3次元だわ。」
溜息をついてもう一口煽ると、ソーサーを見たまま言う。
「森山か。」
「…。」
「わっかりやすいなぁ、お前。」
目線を泳がせた湊に清志は呆れたように言った。
「どーしたんだよ。」
「…由孝さんに好きな人がいるの。」
「はあ。」
「その人とは、その、上手くいかないだろうって。」
「…」
「昨日、3年生で一番の美人さんに告白されて、言われてた。」
「まじか。残念なのにやるなあいつ。」
「…1カ月で好きにさせてみせるって、今、すっごい猛アピールしてる。」
「マジで。」
思いのほか本気な彼女の様子に、清志も目を見開いた。
正直、兄の目から見ても森山が付き合うのは後にも先にも妹だけだろうと思っていた。
不本意だ何故あいつなんだと思っていたが、今はあいつがそんなにモテることに驚きが隠せなかった。
「このままじゃ、本当にあの人と付き合うかも。」
「森山には好きなやついるんだろ。」
「告白された時にその場で断らなかったって事は、もう諦めるつもりなのかも。」
ネガティブ全開の妹に、再度溜息をつく。
「つーか、森山に好きなやつがいるっての知った時はそんな打撃受けてた感じじゃなかったじゃねーか。」
「彼女ができたら、今と同じようには過ごせない。」
「お前隣に居られたら幸せパターンかよ…」
がしがしと頭をかいて、少し前のめりに肘をついた。
「あのな。そんなの所詮キレイゴトなんだよ。」
「…」
「今までそれでいいと思えてたのは、お前があいつにとって一番近い女子だって自負してたからだ。」
「……」
「そういう感情じゃなかったとしても、自分があいつのヒエラルキーの一番上に来る。それが分かってたから、お前はてっぺんで胡坐かいてたんだろ。」
「そんなんじゃ、」
「ウルセエ、聞け。」
弱い反論も、ぴしゃりと跳ねのけられる。
「何もせずにのうのうと茶ァ啜ってて、いざ並ぶ奴がでてきたら急に焦りだすのかよ。笑えるぜ。」
「…」
「いいか。このままじゃ、お前はどのみち負ける。森山がその子をとっても取らなくてもな。」
湊はただ黙って清志の言葉に耳を傾けた。
「お前はこのまま森山が誰かと付き合うまでそれを繰り返すのかよ。あほらし。」
「…」
「どうせならその子から奪い取るくらいの気持ち見せろよ。お前の大好きな森山君取られてもいいわけ?」
ぎゅっと寄せた眉に、そっと清志が湊の手を握る。
「どうするかはお前の自由だが、後悔はするなよ。兄ちゃんからの助言だ。」
顔をあげると、「な?」とにっと笑われた。
ささくれていた心が、修復されていく。
みすみす見送るくらいなら、あがくことを選ぶ。
「うん、ありがとう。」
「お兄様に感謝しろよ?」
「ふふ、うん。」
そこからは裕也や互いのバスケ部のメンバーの話をした。
固まっていた表情筋も戻って、笑って話をできる。
兄の力は偉大だ、と再確認した湊。
明日からまた頑張ろうと決意した矢先。
すでに、新しい布石が打たれていたとは思いもせずに。
「みーちゃった…」