緑間真太郎という男は、とてもストイックな存在だった。
何にも手を抜かず、絶対の精度を誇るシュートを可能にした彼の姿勢は
誰もが心のどこかで尊敬し、時には羨望や悋気の的になりうることも、緑間はよく理解していた。
つまるところ、彼にぶつけられる言葉や感情は
よくも悪くもストレートであった。
彼の性格上、負の感情を向けられる事だって少なくなかったが
それも致し方ないと最早諦めに似たものを抱えていたのだ。
だが、その「負」というのは先にも述べたようなものである事が前提で
こんなことを指しているのではないと、彼は今声を大にして主張したかった。
「常盤、」
「ひぇ!」
緑間が少し声をかけただけで、彼女は大袈裟なまでにびくりと肩を揺らしてみせた。
彼はただ落としたハンカチを拾ってやっただけだったのだが、
相手は自分を凄い勢いで振り返って確認すると、青い顔を更に青くさせて5歩ほど距離をとられた。
緑間は溜息をついて、手の中の可愛いピンクのハンカチを窓枠にそっと置いた。
「ここへ置いておく。」
「あ、」
何かを言いたがっている彼女を置いて、緑間は足早にそこを去った。
彼が見えなくなってからようやっと動き出した少女は、窓枠の上にちょこんと乗せられたそれを手に取って、泣きそうに顔を歪めた。
○●○●○●○●○●
緑間とて、相手がただの知人程度ならば特に執着することもないだろう。
だが、彼女は何の因果か秀徳バスケ部のマネージャーなのだ。
部活の間も彼女はできるだけ緑間には近づかず、静かに自分の仕事をこなす。
休憩の用意も気が付いたらベンチの上にきっちりとされていて、童話の「靴屋の小人」を彷彿とさせる。
緑間は、今日2度目の溜息と共に自分のボトルを手に取った。
「何、真ちゃん。溜息なんかついちゃって。」
「なんでもないのだよ。」
「本当かよ?」
「煩いぞ。」
「へーへー。」
高尾が緑間を覗き込むが、本当に何でもないように顔を逸らされればそれ以上を追及する術を彼は持っていなかった。
「あ、湊ちゃんだー」
高尾の間延びした声に目をそちらへ向けると、小さな体で大きな洗濯籠をえっちらおっちら運んでいるところだった。
自分たちの為に頑張っている姿は嫌いじゃなかったし、それなりに感謝もしていた。
休憩時間もまだある。
仕方ない、少し手を貸してやるかと踏み出すと、少し向こうでそれに気が付いた湊が、お約束のようにびくりと震えた。
伸ばしかけた手が中途半端にはばかられる。
彼女は左右に盛大に目線を泳がせた後、ばたばたと体育館を出て行った。
「あーぁ、まだ怖がられてんの?」
「…」
「一体何したのさ、真ちゃん?あんなにあからさまに怯えられるほどさぁ。」
「身に覚えがないから、困っているのだよ…!」
苛立たし気に左手に拳を作る。
彼女がああやって避けるのは、緑間相手の時だけだった。
平均よりも異常に高いこの身長のせいかとも思ったが、そう変わらない宮地や
自分よりもまだ高い大坪には笑顔を向けているのをよく見かけるためそうでもないのだろう。
「(何なのだよ、一体…)」
理由も分からないままに行われる行為に、思いのほかダメージが蓄積されているのも間違いなかった。
○●○●○●○●○●
「湊ちゃーん。」
洗濯をすべて干し終えて、満足げにそれを見る湊の所へやってきて声をかけたのは高尾だった。
「高尾くん。」
「よ、はかどってる?」
「うん、もう終わったよ。次のゲームのスコア取りの用意しないと。」
「はー、多忙だねぇ。」
「これもお仕事だよ。」
にこり。
人畜無害を形にしたような笑顔を向けられ、高尾もつられて微笑む。
「(これを、真ちゃんは向けられた事ないんだよなぁ…)」
「高尾くん?」
「ああ、ごめん。なんでもない。」
少し首を傾げた彼女だったが、高尾の向こう側を見てぐっと顔をしかめた。
緑間かとも思ったが、彼に向けるのは怯えた、というのがまさにそれで
こんな嫌悪感を丸出しにしたような表情ではない。
何があるのかと振り返ろうとした高尾を、やんわりと湊が遮る。
「そろそろ休憩終わる時間じゃないかな。」
「え?あ、あぁ、ほんとだ。」
「早く行った方がいいよ。大坪さん、今日から遅刻取るって言ってたから。」
「げ、マジか。」
じゃあな、と手を振って足早に戻って行った高尾を見送ってから
彼女は籠を持ち直して歩き出した。
「おい、何スルーしようとしてんだよ。」
「…」
「チッ、無視かよ。」
通り過ぎようとしたところで、人影に腕を乱暴に掴まれた。
その場に、籠が軽い音をたてて転がる。
「…何の用です。」
「いい加減さぁ、諦めて俺の物になったら?」
「何度もお返事しているはずです。嫌です。」
彼女がぎろりと睨み付けるのは、にんまりと笑う男子生徒。
ついこの間までバスケ部にいたのだが、緑間や高尾が入ったことでスタメンに入るのは無理だと諦めをつけて部を去ったのだ。
「意味わかんねぇ。何で?俺、見た目も素行もいい方だと思うけど?」
「…離してください。」
「勝気なお前も嫌いじゃねぇけどさァ…」
だん、と壁に投げつけるようにして押し付けられる。
捕まれた肩がずきずきと痛んだ。
「そろそろ素直になってもいいんじゃねぇの?」
「…素直、という言葉の意味が分からないです。」
あくまでも引く気はない、という姿勢を崩さない湊にだんだん相手もイライラしてきているようだ。
「俺が付き合ってやるって言ってんの。」
「結構です。」
「なんでだよ?こんな優良物件他にないと思うけど?」
「ちゃんちゃらおかしいです。誰にだって選ぶ権利はあります。」
「俺よりいい奴らがいるっての?」
「…少なくともバスケ部の人たちは皆貴方よりもずっと。」
いつも緑間へ向けるびくびくした表情は一体どこへいったのか。
彼女の目はとてもしっかりしていた。
「マジで意味わかんねぇわ。お前、あいつらの何がいいワケ?」
呆れたような声に、ぴくりと反応する。
「確かに3年の先輩たちはすげぇよ。俺だってあの人たちの下でプレーしてたしな。」
「……」
「でも、新しく入ってきた1年はどーよ?ああ、お前は別だぜ?」
卑下た笑みを浮かべて話をつづける彼を、湊は無表情で見上げる。
「キセキだなんだと持て囃されてすぐにスタメン入りだろ?高尾だってそうだ。」
「…」
「上を立てる気も無くてよぉ。生意気ったらねぇだろ?」
「緑間くんも高尾くんも、大坪さんや宮地さん、木村さんたちの事は尊敬してます。」
「そりゃ一緒にコートへ立たなきゃならねぇなら手綱は握れてなきゃだよなぁ。」
先輩たちも大変だよな、なんて鼻で笑った彼に、湊はとうとう本格的に反論に出た。
「先輩たちは、二人を仲間として見ています。一緒に勝利を狙うために、日々練習に励んでいるんです。」
「ああ?」
「貴方が尊敬の念を向けられないのは当たり前です。私、言いましたよね。誰にだって、選ぶ権利はあります。」
自分は先輩として立てる意味もないと暗に伝えられた彼は、かっと顔を赤くした。
「テメェ、黙ってればいい気になりやがって…!」
「すべて、事実です。」
「この、野郎…っ」
「貴方なんかよりも、彼らのほうがずっと素敵だわ。」
強く言い切った湊に、とうとう我慢の限界がきたのか彼は拳を振り上げた。
もともと暴力を振るわれる心積もりもあった湊は、ただじっと激昂する相手の顔を見ていた。
「湊ちゃんッ!!」
聞こえて来た声はあまりにも遠かったのに、彼の拳は湊にあたる直前で止められていた。
保っていたポーカーフェイスを崩して、自分の背後を振り返る。
今までにないほどの至近距離に緑間の姿があった。
「み、どりまくん」
「彼女に、一体何をしようとしているのだよ。」
「て、めぇ!」
「彼女から手を離せ。」
湊を後ろから抱きすくめるようにして、肩にかかっていた相手の手を引きはがす。
必然的に、湊は緑間の腕の中だ。
「そいつを離せ。まだ話は終わってねぇんだ。」
「彼女から貴方へ話すことは、もうないように思いますが。」
「ふざけんな!テメェに言われる筋合いなんてねぇんだよ!」
「なら、俺たちならいいのか?」
緑間の更に後ろから聞こえて来た声は、3年生たちのものだった。
「お、大坪さん…」
「テメェ何してんだ轢くぞ。」
「湊、大丈夫か?」
「木村さん…」
ほ、と息をついた湊。
明らかに分が悪い事がやっとわかったのか、彼は色々な捨て台詞を吐いて去って行った。
後ろ姿が見えなくなった瞬間、緑間の腕にかかる重さが急に増える。
「っ常盤」
「ご、ごめん、足が」
力が入らなくなった足に、本人も驚いているようだ。
縋り付くように緑間の腕を掴んでいる。
「大丈夫か。」
「う、うん…ごめんね」
「構わん。」
ううう、と唸る彼女に、緑間は少し考えてからそっと抱き上げた。
「え!?」
「おとなしくしていろ。」
子供を抱くようにして持ち上げられた湊は、2M越えの視界にうろたえた。
「い、いいよ、ちょっとしたら戻るから…っ」
「いいといっている。」
湊を抱くのと反対の手で籠を拾って、体育館へ歩き出す。
持つよ、と手を出した高尾へ籠を預けて今度はしっかり両手で抱き上げる。
「ご、ごめん…」
「俺が勝手にやっていることだ。」
湊が困ったように眉を寄せてから、そっと緑間の頭へ自分の額を寄せた。
後ろから見ていた他のメンバーは酷く驚いた顔でその光景を見ていたが、
緑間はすべてを悟ったように言った。
「俺を避けていたのは、先ほどの彼と俺が似ていたからか。」
「…」
見た目すべてが似ているわけではない。
だが、あまりにも目の色がそっくりだったのだ。
声も低く、どこか緑間を彷彿とさせた。
「ごめん。」
「…もういい。」
攻撃的な好意しかぶつけられたことのなかったその声に、湊は無意識に恐怖を抱いていた。
あれだけの啖呵も、あの一瞬だけだったのだ。
「俺は、あんな物の言い方はしないのだよ。」
「うん、ごめん、分かってる。」
「…なら、いい。」
静かな緑間の声に、湊はそっと目を閉じた。
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湊は、その後も変わらず笑顔で仕事をつづけた。
ハードな練習をこなすメンバーを笑顔で見ながら、楽しそうにマネージャー業をこなす。
今までと変わらない毎日を過ごしていた。
「常盤」
「あ、緑間くん。」
「ふらふらするな、またこけるぞ。」
「も、もうこけないよ…」
洗濯籠2つを腕に抱えて右に左によろよろしながら歩いている湊に、
緑間が当たり前のように声をかけて籠を1つ上からかっさらっていく。
よく見かけるようになった並んで歩く2人は、秀徳バスケ部の日常になりつつある。
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