今日も疲れた。
高校時代部活に明け暮れ、同じ言葉を吐いていたとは思えないほど
今の自分は疲弊し切っていた。
何時かは来るであろうと少しは期待も向けていた“大人”の自分も、来てしまえばこんなにも味気ないものだったのか。
会社から自宅までの帰り道に伊月は溜息をついた。
エレベーターに乗り5階で降りて、一番突き当りの部屋の前で鞄へ手をつっこむ。
探し物の鍵が見つかる前にがちゃりと開いたドアに、思わず笑顔がこぼれた。
「おかえりなさい、遅かったね。」
「ただいま。」
ドアを大きく開けて伊月を中へ招き入れた彼女は後ろ手に鞄を受け取ってから鍵を閉めた。
「よく俺だってわかったね。」
「結構廊下歩いてる音で人ってわかるものだよ。」
「そうかな。」
「あ、お風呂湧いてるよ。ご飯仕上げちゃうから先に入って貰える?」
「うん。」
ぱたぱたとキッチンへ向かう彼女の背中も、大分慣れた。
付き合って3年、同棲を始めたのはもう1年ほど前の話だ。
最初こそ帰ってきて親や姉妹以外の人間が「おかえり」と迎えてくれる事にくすぐったい気持ちを抱えたりもしたが
今では彼女がいないと無意識に探すようになった。
ざばり、と風呂に入って細く息をつく。
正直、贅沢だと思う。
仕事の関係上彼女の方が朝早く出て行き、その分早く帰ってくる。
彼女だって働いているのに、出ていく前に自分を起こして朝ごはんの用意をし、
弁当まで机の上に仕上がっている。
帰ってくれば、毎日綺麗に掃除された部屋と丁度いい湯加減の風呂、いい匂いがする夕飯が迎えてくれる。
家の事は彼女が来てから何一つやっていないと言っても過言ではない。
自分は彼女に甘えて、毎日を過ごすだけ。
休日も最近は仕事の忙しさを盾に、ろくに構ってやった覚えがない。
「…本当、甲斐性なしだな。」
「伊月くん、バスタオルと着替えここねー」
「うん、ありがとう。」
脱衣所から聞こえた声にこちらは気の抜けた声で返事を返した。
💙💙💙💙💙💙💙💙💙💙
風呂から上がって、肩にタオルをかけたままリビングへ戻る。
テーブルの上には既に夕飯の準備が整っていて、誘われるように席に着いた。
冷蔵庫からキンキンに冷えたビール缶を出して伊月へ手渡し、彼女は向かい側へと腰を下ろした。
金曜日の恒例となっているそれを、プシュ、と音をたてて開けてから手を合わせる。
「いただきます。」
「はい、どーぞ。」
くすくすと笑う彼女に少しくすぐったい気持ちを抱えながら夕飯を平らげていく。
同棲し始めた頃はお世辞にも上手だとは言えなかった料理も、大分うまくなった。
「ん、おいしい。」
「本当?うれしいな。」
にっこりと微笑む彼女に、俺は箸をおいた。
さっきまで褒めながら食事をしていたのに急に手を止めた俺に、彼女は首を傾げた。
「どうしたの?」
「…あのさ。」
ずっと、考えていたことだった。
仕事が忙しいからとか、いろいろ理由をつけて後回しにしてきたけれど、もういいんじゃないか。
ふいに、そう思った。
「明日、暇?」
「え?うん、何もないけど。」
「久しぶりに出かけようよ。見たい映画あるって言ってたよね。」
数か月ぶりの俺からの誘いに目を見開いて、少しだけ顔をしかめた。
「でも、伊月くん疲れてるでしょ?無理に出て行かなくたっていいんだよ。」
「俺が行きたいから。」
言い切った俺に、彼女はほんのちょっとだけ戸惑う仕草を見せてものの
照れたように笑って承諾してくれた。
「本当に久しぶりだね、伊月くんと出かけるの。」
「そうだね。」
「どこ行こうか?映画見てー、」
「俺のデートプランあるんだけどさ、」
「そうなの?珍しい。」
どこへ連れてってくれるの?そう言っておかしそうに笑う彼女に俺はできるだけ目を向けないように少し早口で言った。
「午前中の映画見てさ、駅前のカフェでちょっとだけ早いお昼を食べるんだ。」
「うん。」
「それから百貨店のアクセサリー売り場で買い物して、市役所へ行く。」
「…市役所?」
首を傾げた彼女に、俺は更に続ける。
「紙を貰ったら、本屋に寄って帰ってくるんだ。」
「伊月くん…?」
「きっと帰ってくるのは夕方だと思うけど、それから、未来の話をしよう。」
目を見開いて固まる彼女に、俺は深呼吸を1つしてから少し声を張って言った。
「俺と、結婚してほしい。」
指輪も、彼女がいいと思うものにしようと思ったから用意も出来ていない。
半分は勢いだったので、ちょっといいレストランとかでもない、いつもと変わらない我が家。
彼女にとっては少しムードとか、そういうのが足りなかったかもと今更思うけど
俺は彼女がいればどこだってかまわなかった。
ぼろりとこぼれた涙をそっと拭ってやりながら、俺は世界一大事な彼女を抱きしめた。