1年越しの約束

誰もいない、海常高校の男子バスケットボール部の部室。
沈みかける夕日の光が差し込むそこに、人影が浮かぶ。

するりと髪から耳へと滑らされた手は、少し緊張気味にその頬を親指で撫でた。

「本当に、いいの。」
「はい。」
「今なら、戻れる。」
「いいんです。」
「…でも、」
「由孝さん。」

躊躇が浮かぶ男の声に、凛とした声が被さった。
そっと女の手が、頬を撫でる男の手に添えられる。

「震えてる。」
「…だって、」
「平気ですよ。」
「…でも、痛いと、思う。」
「ええ。」
「血だって、出るかも。」
「そうですね。」
「…俺、初めてだし。うまくできるか、わかんないし…」
「私だってはじめてです。」
「そりゃ、そう、だけど…」

踏ん切りの付かない男に、女は仕方なさそうに浅く息をついた。

「私、由孝さんだからいいんですよ。」
「湊…」
「由孝さんだから、身を任せようと思えるんです。」
「…」
「それに、したいって言ったの、由孝さんですよ。」
「…分かってる。」
「なら、ほら。」

そっと伏せられた瞳を覆う睫毛は、女の頬へ影を落とす。
何の心配もないとばかりに信じ切った心を向けられた男は、視線を彷徨わせた後、意を決したかのように眉をきりりと寄せた。

「わかった。…いいんだな。」
「いつでも。」

男は、震える手に力を籠め―――

















「やっぱり無理だあああ!!!」
「いー加減にしろ!!何回そのやり取りやってんだ!!!」

がしゃりと音を立てて床へ落とされた小さな機械に、容赦なく部屋の反対側からバッシュの入った袋が飛んでくる。
流石、というべきか。
湊には掠りもしないまま森山へクリーンヒットしたそれは、鈍い音を立てて、これも床へ落ちた。

「ほんっっっっっとう、森山センパイってキメられないッスよねー。」
「(俺)知ってますよ!こういうの、「ヘタ(レ)」って言うんすよね!」
「そうだぞ早川。よく覚えておけよ。」
「ああならないようにな。」
「お前ら、本当容赦ないな…」

笠松に苛々と共に物を投げつけられ、黄瀬や中村、小堀に馬鹿にされ、早川には悪意のない言葉の矢を射られながらも挑戦する事、早十数回。
当の本人である湊は、くすくすとおかしそうに笑いながら床に落ちたそれを拾った。

「わざわざ学校へまでいらっしゃったので、もう覚悟は決まっているんだと思っていました。」
「…逆に何でお前そんなに冷静なの。」
「言ったでしょう。相手が由孝さんだからですよ。」

今日は、海常高校の卒業式である。
卒業生へつけられる造花を胸に飾った湊、早川、中村は、式が終わった後部室へ残っていた。
思い出話に花を咲かせていると、わざわざ大学からやってきた森山たち3人が顔を出したのだ。

最初は驚き、目を見張った4人だったが、久々に逢う先輩たちを笑顔で迎え入れた。
恐らくは、大学の練習を早く切り上げてきたのだろう。
兄からの3人を捜索するメールは、今だけ見なかった事にした。

卒業おめでとう、とそれぞれに声をかけられ、更に話に花を咲かせていた時だった。
1年前の海常祭の話を出され、居心地が悪くなった湊がふいにイヤリングを触った。

「あ。」
「?」

思い出したように森山が声をあげ、鞄を漁った。

「どうしたんです?」
「俺、今日はちゃんと用事あってきたんだよ!」
「今日は、って…」

呆れたように反芻する中村を無視して、小さな紙袋を取り出す。
不思議そうにそれを覗き込む黄瀬に見せる様に、森山は袋を開けて中身を取り出した。

「ピアッサーじゃないッスか。」
「そう。」
「森山、ピアスなんか開けんの。」
「純和風顔のお前には、ピアスは似合わねえぞ。」
「笠松、お前もうちょっと俺に優しくてもいいと思う。」

俺じゃねーよ、とぶつぶつ言いながらパッケージを開けていく。

「じゃあ、誰が…」
「俺、もうホール開いてるからいいッスよ。」
「(俺)痛いのは嫌です!!」
「お前らじゃねーよ!」

この掛け合いも、長らくやっていなかった。
多少の懐かしさを感じながら、湊も自分のポケットを探った。

「私ですよ。」
「は?!」
「ちょ、おま、本気か!?」

小堀と笠松が慌てだす。
かさりと音を立てて出て来たのは、大分長い間封を切られないままお飾りになってしまっていた、マリンブルーのピアス。

「わあ、綺麗ッスね。」
「でしょ。」
「森山センパイチョイスッスか?」
「そうだけど。」

肯定の言葉に、中村が思い切り顔を顰めた。

「何で、青なんです…湊のハニーイエローの髪にマリンブルーのピンピアスはちょっと浮くんじゃないですか。」
「今までずっとお(揃)いの黄(色)いイヤ(リ)ングだったから、違和感は感じ(る)よな。」
「俺が好きな色選んだら、お前らが煩いからだろ!!」

森山の気遣いもボロボロに言われ、むくれ顔を返した。
湊は笑いながら、耳についていた黄色いイヤリングを外した。

「由孝さん、ホール開けてくれるって言ってましたもんね。」
「まあ、うん。」
「お願いします。」

丁寧に机の上へイヤリングを置いて、耳を森山の方へ向ける。
緊張した面持ちで、ピアッサーを握った。

「ええと、まずは冷やさないとだよな。」
「保冷材あんだろ。」
「えーっと、どこだっけ。」
「ここですよ、はい。」

中村に手渡されたそれとピアッサーを手に、湊の前へ座る。
完全に信頼し切った表情は、逆に森山の緊張を煽った。

―――そうこうして、早30分。
やるか、やらまいかを繰り返していた森山へ、とうとう笠松が我慢を切らしたということだ。

「お前湊の度胸見習え!いつまで“彼女の方がかっこいい”を貫き通す気だ!」
「俺だって貫くつもりはねえって!!」
「湊、俺が開けてあげよっか。」
「だめ!!!」

小堀の言葉をすかさず否定し、森山は湊をぎゅっと抱きしめた。

「湊は俺のなの!湊を可愛がるのも俺が一番だし、湊に傷つけてもいいのも俺だけ!」
「いいんスかぁ、湊さん。このままじゃキズモノにされちゃうッスよ。」
「ははは。」

必死な森山とは対照的に、からから笑う湊を見て中村は頭痛を覚えた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

その日はもう無理だと諦めた一行は、そのままバスケへなだれ込み、とっぷりと日が暮れたのを確認してから湊たち3人の卒業と黄瀬の本格的なキャプテン始動を祝って夕飯を食べに出た。
よく行くファミレスの席を大きく陣取って賑やかに夕食を終え、駅まで久しぶりの7人での帰路を辿った。

特に話の中心へ入るわけではないが、列の後ろから楽しそうに前のメンバーを見つめる湊を、森山はそっと横目で確認した。

ふわりと風になびくハニーイエローの髪の間から覗く耳には、結局未だお揃いの色のイヤリングがついている。
それにどこか安心感を抱いてしまう自分にも、結局尻込みしてしまった自分にも溜息が漏れた。


それじゃあ、と声をかけて散り散りになったメンバー。
湊もぺこりと先輩に頭を下げて家へ向かおうと、踵を返した。
話し声が遠のいていき、なんとなく3年間が終わったことへの感傷に浸っていると
後ろから走り寄る足音が聞こえて来た。
何だろうかと振り返ると同時に手首を捕まれ、きょとりと目を丸めて相手を見遣る。

「…よ、したかさん?」
「湊っ、もう1回、もう1回だけチャンス頂戴…!!」

少しの間相手をじっと見て固まっていたものの、先ほどまでの困ったような表情はもう無い。
覚悟を決めたようにぎゅっと寄る眉と引き締められた口元に、湊はゆるく微笑んで首肯した。





そのまま二人は森山宅へとやってきていた。
夜遅くにお邪魔するのは申し訳ないと、自分の家へ誘った湊だったが
滅多に見ることが無いほどの真面目な顔で、「お前はもう少し俺へ危機感を持った方がいい」と言われ、何の事やら分からないまま彼の家へと足を踏み入れていた。

出迎えた森山の母親は、久しぶりに見る湊に目を丸めて驚いた。
夜分遅くにすみません、と至極申し訳なさそうに言う湊に直ぐににこりと笑顔を作って快く迎えてくれた。

森山に手を引かれて部屋へ通されると、鞄を置いて座るように言われた。
すとんと腰を下ろすと、台所から氷の入った袋を持って森山が戻ってきた。

深く深呼吸をして、視線を湊へ向ける。

「開けるぞ。」
「はい。」

迷いなく頷く湊に、今度は背中を押される気分だった。
冷たいぞ、と一声かけて氷を耳たぶへ押し当てると、ぴくりと肩が跳ねた。

「悪い、」
「いえ。」

びりびりと冷えで多少痛む耳を我慢しながら目を閉じていると、ややあってから氷が離れる気配がした。

「もう、いいかな。…感覚、まだあるか。」
「いえ、平気です。」

離されたそれと交代で、素早く消毒されてピアッサーがあてられる。
やってくるかもしれない痛みに心を決めて、何となく視線を彷徨わせると
森山がピアッサーの位置を確認してから、ふいに距離を詰めて来た。

不思議に思って視線を戻すと、交わらない目線の代わりに唇へふわりと何かが触れる感触がした。



ばちん、と耳元で鳴った多少生々しい大きな音も、最早気にならなかった。
大きな目を更に大きく見開いて、離れていく相手の顔を見つめる。

「……由孝さん、」
「湊…」

吐息交じりに呼ばれた声にどきっとしたものの、すぐに表情を崩した森山に冷静さを少し取り戻した。

「ど、どうしよう、血…!!」
「え、」

ぽたりと肩へ落ちて来た血に、本人よりも森山の方が焦っている。
ティッシュを貰って抑えながら、森山のくれたピアスへ手を伸ばした。

「だ、ダメだ!」
「え、」

慌てて止められて首を傾げると、すごい勢いで色々説明された。

スタッドがどうとか、ファーストピアスは金属アレルギーを出さないために純チタンのものがいいとか。
わざわざ用意までしていたようで、言われるがままに飾り気のないそれを耳へ填められた。

「本当に、色々予習してきてらしたんですね…」
「そりゃそうだろ、開けるのが自分ならまだしも、相手は大事な湊なんだから。」

困ったように息をつくと、そっと手を離される。
多少出ていた血も、すぐに止まった。

「ごめん、痛かったか…?」
「いえ、平気ですよ。」
「そ、か…」

ひどく安堵したように詰めた息を緩める森山に、湊は笑った。

「……笑うなよ。」
「だって、ふふ、」

拗ねたように口を尖らせる森山は、すぐにまた眉を下げて未だ少し冷たい耳を撫でた。

「湊、大学うち来るんだろ。」
「ええ。」
「なら、大学にはあのピアスで来てよ。入学式までにはホール安定してる筈だから。」
「わかりました。」

頷く湊に、森山は深く深呼吸をして反対側の穴をあける準備をした。
二度目という事もあって、先ほどよりは双方心にゆとりがある状態で同じように開けられたピアスホールは、じんわりと色々な意味で熱を持ち始める。

「…湊、すきだ。」
「ありがとうございます。」
「……湊は?」

ぽつりとこぼされた言葉に、ふふ、と笑ってから頬へキスを返す。
今度は反対に目を丸めた森山が頬へ手を当ててぽかんとしているのに緩く微笑んで言った。

「好きですよ、由孝さん。」
「〜〜〜〜ッとに、お前は…」

ぶわりと赤くなる顔を隠すように、森山は湊の肩へ顔を埋めた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


少ししてから様子を見に来た森山母は、戸をあけて一番に見えた血を拭う湊に
いつもの温厚さは何処へいったのかという勢いで森山をしかりつけた。

他人様の娘さんへ傷をつけるなんてと、ひどく怒鳴られた森山は成す術もないまま冷たい廊下へ正座させられていた。
横から湊が慌ててフォローを入れるものの、全く意味をなさず。

しこたま怒られた後、若干しょんぼりした森山に送り届けられて帰宅したのだった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

森山の受難は、そこで終わりではなかった。
彼の母親は、そこから続くお説教モードの入り口でしかなかったのだ。

卒業式も終わり、大学も寮へ入る事が決まっていた湊は数日後には荷物を寮へ送り届けて実家へ一時避難していた。
勿論裕也は家にいるし、可愛い弟妹たちが家にいると聞いた清志も、二人がいる間はわざわざ実家から学校へ通うことにしていた。

長い髪で気付かれずに居たピアスホールも、風呂に入った時にバスタオルでまとめ上げられて耳が出てしまえば、兄の目に触れるのも当たり前で。
湊は恐ろしい笑顔でどうしたのかと聞かれ、かいつまんで内容を話してしまった。

勿論、次の日部活で出会った清志は問答無用で森山を引っ掴んでコートへ出した。

目を白黒させながら何だ何だと慌てる森山へ、清志はただ一言妹の名を口にした。
少し思案してから、実家へ一時帰宅するのだと言っていた自分の彼女と、今の相手の状態を照らし合わせて顔を真っ青に染めた。

「ちょ、待て!!」
「テメェ、他人んちの妹キズモノにしやがって!!!」
「ちが、違う!や、違わないけど!!」
「覚悟!!!」
「っぎゃあああああ!!目が!!目がマジなんだけど!!」
「当たり前だろーが!!」

追いかけまわされる森山と般若のような表情の清志に、周りの面々はまたかとばかりに日常を見る目で観戦を決め込んだ。

「なんや、とうとう森山カノジョとイッパツきめたんか。」
「今吉、言葉選ぼうな。」
「もしそうなら、こんなもんで済むわけねーだろ。」
「そうそう。それにあんだけヘタレてた森山がそんなことできるわけないだろー。」
「小堀の言う通りだ。」

好き勝手言い放題の同級生たちに、これからの自分の苦労を思って少し悲しくなった。

Dear,コロン様
企画参加ありがとうございます。
先にこっちが出来上がりました…

本当は兄たちの話を中心に入れようかと思ったのですが
最初の思わせぶりなシーンを入れたくてこの形へ収まりました笑
主の感情の起伏を入れるために何度も出てくるピアスやイヤリングの話を拾ってもらえてうれしいです!

これからも、連載の方お付き合いいただけると幸いです。



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