消えたヒロイン
基本的に、沸点の低い人間は、忘れるのも早い。
つまり、熱しやすく冷めやすい。
さっきまであんなにキレていたのに、この十数分の間に何があったのかと思うほどに何事もなかったかのように接してくることも少なくない。
湊もそのタイプだった。
彼女のまだマシな点としては、一応自覚があったことだ。
イラッとしたとしても、時間が経てば納まる事を知っているため一人になって時間を稼いだりしていた。
それが、彼女なりのイヤリングに次ぐイライラ解決法だったのだ。
周りもそれを知っていたから、今回だって時間が解決するだろうと思っていた。
兄たちも頭を抱えながらも我関せずを貫き通したのも、そのせいだ。
だが、今回はそう甘くは終わらなかった。
次の日、朝いつもと同じ時間に起きて仕事を熟した湊はいつも通りだった。
ただ、森山以外に対して、だが。
若干ビビりながら挨拶した森山に、一言も返事をせずにただ朝食を出してエプロンを外した。
困惑した表情で行き場のない手を伸ばす小堀に、森山はただただ溜息をついた。
こんな筈ではなかったのだ。
自分が好きなのは間違いなく湊で、他の女性などどうでもいい。
今の森山なら、必ずそう答える。
それほどまで、彼にとって湊はなくてはならない存在なのだ。
それなのに、何かを誤解されているのか、そういったものを持っていた事に怒られているのか。
それすらも分からないまま、視線すら合わない状態をキープしたまま5日が過ぎようとしていた。
「流石に、長すぎませんか?」
「俺もそう思うッス。」
「湊(ら)しくないッス。」
「そう言われても…」
夜、風呂上りの海常の面々がリビングへ集まって臨時集会を開いていた。
湊はこの一件以来、仕事は部屋へ持ち帰るようになったため今は不在だ。
「確かに湊さんは自他共に認めるほどに短気ではあったけど、こんなにあからさまだった事なかったッス。」
「そうだな。」
「困ったな…」
小堀が小さく溜息をつきながら湊の部屋を見上げる。
「お前が悪いんだから、さっさと謝っちまえよ。」
「や、謝るにもあいつ、俺を半径5M以内に入れない事を徹底してるし。」
「…」
「ほとほとどうしようもないですね。」
中村も顎に手をあてて考え込む。
と、がちゃりとドアが開く音がした。
反射的に6人が顔をあげると、ちょうど渦中の人物がPCを持って部屋を出て来たところだった。
「湊さん!」
黄瀬の声に視線を下へ向けるものの、そこにいるのが海常の面々だと知るや否や一度の瞬きと共に視界を逸らした。
「湊…ッ!」
がたん、と机へ足をぶつけるのも構わずに立ち上がって声をかける森山。
反射なのか、一応足を止めた湊に森山は慌てて言葉を繋げた。
「違うんだ、あれは、本当に…!」
「本当に、何ですか。」
とても久しぶりに聞いた湊の声は、依然として冷たい。
元々語彙力の塊のような湊と、ある意味事なかれ主義の森山では話にならなかった。
冷たい視線に完全に委縮してしまった森山に、湊は溜息をついて続けた。
「…一度、頭を冷やしましょう。私も、貴方も。」
「どう、いう、」
「貴方は、本当に私でよかったのか。私は、…このままで本当にいいのかもう一度考える必要があると思うんです。」
「…それって、別れよう、って事?」
「……出した結果が、そうであるなら。」
とうとう明言された別れに、森山は大袈裟でもなんでもなく失神しそうになった。
一瞬ぐわんと脳が揺れるほどの立ちくらみを覚え、早川が慌てて揺すって引き戻す。
はっとして視線を戻した時には、既に湊はいなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「…あのねえ、あんたもう少し柔らかく言ってあげたら?」
「森山さんが、流石に少し不憫ですよぉ。」
「いいんだよ、あれで。」
湊は自分の隣の部屋、リコの自室へお邪魔してさつきを交えて情報まとめをやっていた。
困ったように目を見合わせる二人に、湊は淡々と自分の分の仕事を終えてそれを机の上へ投げる様に放り出した。
「っあ―――!終わり!」
「流石、こんな時でも早いですね…」
「私のはどっちかっていうと、事務仕事だからね。二人みたいに計算がいったり、考察が必要な仕事じゃないから。」
「…」
「あ、そういえば手紙、返ってきてましたよ。」
さつきが自分のバインダーから、一通の封筒を差し出す。
湊はそれを受け取ると、封を切ってその場でよみだした。
「…なんて?」
右へ左へ行き来する湊の視線にリコが尋ねると、几帳面に封筒へそれを戻した。
「『わかった』って。」
「そう。」
「…本当に、行っちゃうんですか。」
不安と寂しさのない交ぜになった表情で、さつきが湊のパーカーの裾を遠慮がちに掴む。
開きかけた口を一度ぐっと噤んでから、湊は頷いた。
「いつ出るの?」
「明日の早朝に迎えに来るって。」
「明日?!」
「ちょ、急すぎます!!」
「私に言われても…」
「…ああ、だからやけに仕事が片付いてるのね…」
諦めたように深い溜息をつくリコに、狼狽え続けるさつき。
「まったく…授業とかは大丈夫なんでしょうね。」
「一応、研修ってことで出ることになってるから。」
「はぁ…わかったわ。」
「リコさぁん…」
「情けない声ださないの。」
依然として不安が拭いきれないさつきに、リコは小さく苦笑いを浮かべた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次の日、部はえらいことになっていた。
朝一、いつもランニングに行く面々がそれぞれ自分の札をひっくり返していた時。
丁度自分の一段上に湊の名前があった火神が首を傾げた。
「なんだ、あの人今日出かけてんのか。」
「え?」
「えらい早いな。まだ6時だぞ。」
話を聞きながらぼーっと札を見ていた小堀だったが、徐々に目を見開き顔を真っ青にして階段を駆け上がった。
他の面々が何だ何だとそれに続くと、小堀は声かけもそこそこに湊の部屋を盛大な音を立てながら開けた。
「ちょ、小堀さん!?」
「湊、湊!?」
「名札ひっくり返ってんだから、いないに決まってんだろ、です。」
「どうしたんだよ、急に…」
不思議そうな大坪と火神は目に入らないとばかりに、小堀は何かを確認すると部屋を飛び出した。
「笠松!!!森山!!!!!」
いつもの彼ならありえないほどの狼狽えと早朝の大声に、訝し気にいくつかの部屋のドアが開く。
遅れてきていた笠松と森山が顔を上げると、3階から大きく下を覗き込むようにして小堀が声を張り上げる。
「湊がいない!!」
「は、?」
「鞄がないんだ!!合宿用の大きい肩掛けと、俺がやったジャージも一緒に!!」
2人は同時に目を大きく見開いた。
湊は、練習の時しかジャージは着ない。
それ以外の時は、部屋に丁寧にハンガー掛けされているのだ。
「それ、って、」
「湊、出てったんだ!!此処じゃない、どこかへ!」
半ば泣きそうな声に、森山は唖然と立ち尽くした。
まさか、考え直そう、というのはこういう事だったのか。
ぐるぐると思考が回るなか、がちゃりとエントランスへのドアが開く。
入ってきたのは、欠伸を携えたリコだった。
森山は手に持っていたタオルをほっぽりだして、リコへ掴みかかった。
「湊は?!」
「は!?」
「湊どこ行ったんだ!!知ってるんだろ、お前なら!!」
いつもならへらりとした笑顔の似合う森山が、今にも手が出るんじゃないかと言わんばかりの勢いでリコを揺する。
慌てて笠松が羽交い絞めにして止めに入った。
「なあ!!」
「待て森山、落ち着け!!」
「リコちゃん!!」
大声で湊を呼ぶ森山に、リコは溜息をついて答えた。
「あの子を欲しいっていうチームが出たから、そこへ。」
「は…」
「この間の湊たちの試合あったでしょ、あれを見てたみたいで「そんな事どうでもいい!!!」」
「森山、落ち着けって…!」
「あいつを何処へやったんだよ!!」
「森山!!」
「森山センパイ…!」
流石の黄瀬も騒動に起きて来たらしく、下へ降りて森山を宥めに入る。
「…」
「リコちゃん!!」
「森山。」
笠松の静かな声に、はっとしたように冷静さを少し取り戻した森山は、切羽詰まった様子は崩さないまま視線を足元へ落とした。
ひとまずは大丈夫だと踏んだらしい笠松が、森山の代わりに質問を続ける。
「相田、とりあえず湊を何処へやったのかは教えてもらえるよな。」
「だから、あの子を欲しいっていったチームへ。」
「そうじゃねえ。明確に。『どこへ』やったんだ。」
ギッときつい視線を向けられ、リコは再び溜息をついた。
「京都へ。」
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