桔梗と紫
くるくると、指の上でボールが回る。
ゆらり、重心をずらしたそれは彼女の腕を通って首の後ろをなぞり、反対側の手に収まった。
「ねー。」
「ん、あ。」
ぱ、と手の上からボールが消える。
それを追って顔を上げると、ボールの入った籠に上半身を預けた紫原がいた。
「今日は早いね、どうしたの。」
「ん〜、帰りに車部隊に拾ってもらったから〜。」
どうやらいつもの帰宅路を、車通学組に乗せてもらったようだ。
だから、いつもよりも早いのか。
「ねえ。」
「ん?」
きょろりとあたりを適当に見回してから、湊の横にどかりと座り込んだ。
「…?」
「今度出るって言ってた、女バスの大会。」
「ああ、うん。」
「あんたが狙ってるラスボスって、“うち”の女バスだったやつらだよね。」
湊がじっと目を見たまま口を開かずにいると、紫原は面倒そうに溜息をついてポケットから1枚の紙を差し出した。
「ん。桔梗ちんから。」
かつて学校の先輩だった彼女からの預かりものらしい。
ひらくと、当日のトーナメントと時刻表だった。
「もう、出てるんだ。」
「つっても来週でしょ。そら出るよ。」
なんだかんだ練習を始めてからそこそこ時間が経っていた。
鈴ヶ丘でいた時の感覚も戻ってきて、チームとしてのコンディションも抜群だ。
「で。」
「?」
「話。戻すけど。」
「ああ。」
綺麗に紙を畳み直して、ポケットへ入れる。
「さっちん、DVDは見てなかったんだね。相手校がどこだったかまでは知らなかったみたい。」
「そう。」
「でも、流石に1年ときからスタメン入ってるみどちんや峰ちんは知ってるよね。俺も、興味はないけど流石にユニフォームくらいは覚えてるし。」
がり。
口にくわえていた飴が鈍い音と共に欠けた。
「本当、奇跡に近い確率だよね〜。俺たちが2年になった時に女バスのユニフォームは変更になってる。黄瀬ちんや黒ちんが知らないのも、そのせい、だよね。」
「……」
「あんたたちを、桔梗ちんたちを潰したのは、帝光の女バスだね。」
目は足元を見たまま逸れないが、苛立たし気に寄せられた眉がやけに主張してくる。
「俺、女バスの奴らは好きじゃなかったけど俺には直接害はなかったし、まあどうでもいいかっても思ってた。」
「うん。」
「でも、桔梗ちんが絡んでくるなら、話は別だし。」
湊が目を上げると、今度は長流し目にだが視線が交わった。
「情けない姿晒したら、許さねーから。」
「負ける気なんてないよ。」
「勝ち負けなんて、この際どーでもいいし。」
立ち上がった紫原の表情は、逆光になってしまって見えなくなった。
「桔梗ちんが悲しい顔すんのはやだ。」
「うん。」
「桔梗ちんに何かあったら、俺その場であばれっから。」
「それこそ桔梗先輩が怒るよ。」
困ったように笑う湊を残して、紫原はボールを籠に戻して用具庫を出ていった。
ふう、と溜息をつくと、また大きな影がさす。
「すまんな。」
「岡村さん。」
顔は出ていった紫原を追いながら、岡村が入れ替わって入ってきた。
「あいつ、桔梗にえらく懐いておったからなぁ。」
「みたいですね。」
「桔梗に何かあったら、本当にあいつは暴れるぞ。大丈夫か。」
「大丈夫か、と聞かれるんですか…」
溜息交じりにボール籠を体育館へ押し出す。
「とりあえず、もう同じ失態は繰り返しませんよ。」
「そうか。」
「2度も辛酸を舐めるつもりはありませんからね。」
ゆるく細められた目に、岡村は肩を竦めた。
「海常の奴らが口を揃えてお前をカッコイイだの男前だのと揶揄しとるのをよく聞くが、なるほど確かにそうじゃな。」
「あの人たちは私への評価がやけに甘く出来てるだけですよ。」
ふわりとなびいたハニーイエローに、岡村は小さく溜息をついた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
何もかもが上手くいっていたように思えていた。
チームワークも完璧、態勢も整った。
後は、当日を待つのみだった。
「どうして、早くいわなかったの。」
「気が付かなかったんだ。」
「苦しい言い訳ね。」
試合当日の朝。
違和感を覚えた足に首を傾げながらも用意を終えてエントランスへ降りていくと、たまたま会ったリコが血相を変えて寄ってきた。
あれよあれよという間にまたリビングへ連れ戻されてソファに座らされる。
半ば無理矢理脱がされた靴下に顔を顰めると、何も言わずにてきぱきとテーピングを巻かれた。
「この間やられたのが、尾を引いてるのかもね…無理に練習出たりするからよ。」
「無理になんて、」
「あ゛ぁ?」
「…いえ、なにも。」
ぎゅううううう、と血が止まるんじゃないかという勢いで巻かれたテーピングにサポーターは、もともとそういうものだという事は分かっているが、あまりにも動きにくい。
「…」
「今更試合に出るなってのは、無理な話だってのは分かってるわ。別段酷いわけでもないようだから、その辺は甘く見てあげる。」
「どうも。」
「でも、無理は禁物。いいわね。」
「…」
「私との約束、忘れたの?」
「わかった、わかったから。」
リコの頭をぽふぽふと撫でて、鞄を肩にかけて立ち上がる。
確かめるようにつま先を鳴らすけれど、特に痛みは見られない。
「ありがとう、行ってくる。」
「…ん。気をつけてね。」
「うん。」
「観戦には行くわね。」
「え。」
「観戦だって、練習の一環よ。」
「……わかった。」
言い始めたリコは、もう止まらないのは長い付き合いで分かっている。
忘れ物がないことを確認して、寮を出た。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「遅いよ、山吹。」
「ごめん。」
「いいじゃない、時間ぴったりよ。」
紺先輩が、ぐちぐちと小言を言う紅にやんわりとフォローを入れてくれる。
時間通り集合場所である駅を出た私たちは、会場へ向けて電車に乗り込んだ。
目的地へ着くまでの間、私と若草はドアの際へ立って、他3人は席へ座らせた。
「…山吹先輩、」
「ん?」
「足、どうかしたんですか。」
サポーターまでして、と心配そうに言う彼女に、ゆるく笑みを返す。
「大丈夫。リコの心配症が爆発した結果なだけだから。」
「そう、ですか。」
「…信じてないな。」
「しっ、信じてますよ!」
慌てて取り繕う彼女にまた笑って、外を見た。
会場に着いたらすぐにアップを始める。
沢山のチームが参加するので、様々なユニフォームが行き交う。
私たちは面倒だからと現役時代のものをそのまま出ることにした。
「懐かしいですよね!」
「そうだねえ。」
「もう、6年も前なんだね。」
「さ、隣の空コート使ってもいいって言ってたから、最後の調整に行きましょう。」
ぐ、と伸びをしながら皆の後を追う。
やはり、たった1年だったけれど共に試合に出ていたこのユニフォームには思い入れがある。
あの日から、もう二度と見られないだろうと思っていた光景を、私は一番後ろから眺めている。
「山吹?」
思わず足の止まった私に気が付いた桔梗先輩が、わざわざ戻ってきて声をかけてくれた。
「大丈夫…?やっぱり、しんどい?」
昔から多少の過保護さはあると思っていたけれど、これまでとは。
まだ何も始まっていないし、何よりこの話を受けた時点で心は決まっている。
私はゆるく微笑んで、桔梗先輩をくるりと前へ向かせた。
「大丈夫ですよ。何より、今回私が一番恐れているものは、貴女が甘やかした後輩ですからね。」
「…?紅や若のこと?」
「いえ、貴女と同じ、紫の彼の事ですよ。」
背を押して歩き出せば、驚いたように首だけ私を振り返った。
「どういう事?」
「昨日釘をさされたんですよ。桔梗先輩に何かあったときは、暴れてやるからって。」
「あらまぁ。」
「無様な姿は見せられませんからね、今日は、負け試合は無しの方向で。」
「ふふ、今日も、の間違いでしょ?」
余裕しか見られない桔梗先輩にまた笑って、今度こそアップ用のコートを目指した。
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