「守?」

後ろから名を呼ばれ振り向いた先にいたのは、不機嫌な顔をした守だった。まるで子供が駄々をこねるときのような顔である。そこで夏未はふと昔に守がこんな顔をしたときのことを思い出した。確かあのときも、知らない人間と一緒に話をしていたときのことだった。

なるほど守は妬いているのだ。そう夏未が結論づけるまでに時間はかからなかった。

「ごめんなさい、彼も来てしまったことだしお先に失礼します」

そっと腰に巻かれた腕をといて男に別れを告げれば、男は残念そうな顔をした。無愛想だったかしらとは思ったが、どうせ二度と会うこともないだろう人間だ。さして気にせず守の方へ歩もうと夏未が踏み出せば、その腕が掴まれた。言うまでもなくあの男だ。

「あの、よかったら今度――「今度はないさ」

何かしらのお誘いを口にしようとした男の言葉が遠慮なく守に遮られ、夏未を掴んでいた手がはたき落とされる。この期に及んでまだ逢瀬の機会をつくろうとした男はムッと顔をしかめた。しかしその顔はすぐに苦痛に歪んだものに変わる。守が男の腕を捻りあげたのだ。

「いい加減にしとけよ」

男の腕がギリギリと悲鳴をあげる。夏未が止めに入るよりも先に、男は慌てて守の手をふりほどきテラスから逃げるように去っていった。その情けない後ろ姿がだけが、妙に夏未の脳裏に焼き付いていた。



あの男の背中を見送った後、二人は言葉を交わすでもなく自室にへと戻ってきた。守の後ろを歩く夏未の胸中にあるのは泣き出したいほどの後悔の念であった。馬鹿馬鹿しいことで部屋を飛び出し、挙げ句見知らぬ男との接触で守の機嫌を損ねてしまったのだ。元来頭のキレがいい夏未である。守が今回の旅行を前々から計画していたことも、それを楽しみにしていたことも、ちゃんとわかっていた。そしてこの旅行には必ず何かしらの目的があることも。

その全てを自分が水の泡にへと帰してしまったことが、堪らなく夏未には辛かった。
加えて、帰ってきた自室の中に変わらず置かれた大きなベッドがその気持ちに拍車をかけてしまった。ここまで来ればもうどうにでもなれ。苦しむ心と裏腹に、夏未の頭の中では自暴自棄な考えが我が物顔で駆けずり回っていた。

ちらりと盗み見た守は顔に手を当ててソファにその身を深く沈め込めていた。手のひらの間から見える口元は堅く一文字に結ばれている。

謝らなくては。変に涙が溢れそうになるのをこらえて、夏未は重たい口を開いた。

「あの、ごめん、なさい、」

守はピクリと少し動いただけで、なにも言わない。

「今回の旅行、きっと、楽しみにしていたかもしれないのに、私」

何か。何か言わなければ。でも何から?ベッドのこと?でも守にとっては馬鹿らしいことかもしれない。じゃあ、あの男の人のこと?でもまた不愉快な思いをさせるかもしれない。じゃあ、何を。何か。

「…その、私、きっと守に――きゃっ!」

言葉をさがすことに意識を集中させていた夏未は守に腕を引かれて勢いよくバランスを崩した。そのまま守の腕の中にへと体を倒していた。状況がよく掴めず目を白黒させる夏未をしっかりと抱きしめたまま、守が呟くように話し始めた。

「謝るのは俺の方だ」

夏未を抱きしめる力が少しだけ強くなる。

「本当のこと言うと、前々から今回の旅行のこと考えてたんだ。このホテルだって、ちゃんと予約もしてたし、昼に寄った店だって予め調べてた。夏未が喜んでくれたらいいなって思ったんだ」

考えていた通りの答えに、夏未は守のシャツをきつく握りしめることで話の先を促した。

「夏未も笑顔だったから、来てよかったってすごい思った。でも、さっき夏未があいつと話してるのを見たときは、その、最悪だって思った。夏未が他の奴に触られるのもだけど、大人気なく嫉妬する自分も、嫌だった。馬鹿みたいだろ?」

自嘲を含んだ言葉に、そんなことないとはっきり言ってやりたかった。それでも夏未はあえて言葉にせず、胸にすり寄るだけの行為にとどめた。それだけで、二人には十分だった。

「…それに、さ。夏未がベッドを見て部屋を出て行った時は実は結構ショックで、夏未は俺と一緒に寝るのは、嫌なのかなって。あ、わかってるよ、そんなんじゃないって。で、問題はそこじゃなくて、…あの、思うところはあるかもしれないんだけど、その…」

「なんなの?」

渋る守を促せば、守は少し頬を染めてゆっくりと口を開く。

「…実は、嬉しかったんだ。夏未と、一緒に寝れるの」

ぽつりと蚊の鳴くような声で言われた言葉。しかし夏未の顔を朱に染め上げるには十分な武器となった。言った守の顔色も夏未同様の朱である。
お互い何も言えぬまま時間が経つ。沈黙を破ったのは守の不恰好な咳だった。

「ごほん、まあ、そーゆうわけで、だな。結論を言うと、俺は夏未が好きなんだなー、って改めて思ったわけです、はい。えっと、だから、はっきり言います」



「俺と結婚してください」





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