※成人


子供の頃は早く大人になりたくて仕方がなかった。飲酒や喫煙を咎められることのない、自由を絵に描いたような、そんな大人になりたかった。円堂くん達と出会ったばかりの頃の俺は、年相応の未熟な心に悩まされることがひどく疎ましくて、こんなに苦しいならばいっそ心なんて無くなればいいのだと半ば本気で考えるようなどうしようもない悲観的な子供だった。その身に余るあまりの苦痛に、助けを乞おうと見回した周りの大人達はそんな俺を一蹴するような出来のよい、いっそ厳かだと形容できるような人間ばかりで、俺は歯痒い思いに苛まれながら早く大人になれたらいいのにと人一倍に願った。しかし所詮子供とは単純なもので、円堂くん達と過ごすうちにそんな感情もどこか遠くへと旅立ってしまい、ふと気付けば飲酒も喫煙も咎められぬ年齢になっていた。あの頃の青き時代は目まぐるしい早さで俺の目の前を通り過ぎてしまったのである。

さてそうして、あれだけ望んだ大人というものになれたはいいものの、いざ願いが叶ってしまうとなにをすればいいのかわからない。もとより大人になってどうしたいかなんて願いがあったわけでもなく、ただあの頃の形ない負の感情をもう感じなくてすむのだと信じていただけだったのだから当たり前のことである。そうして、俺はもう不安や迷いを感じなくなったかといえば答えは否。むしろ大人になったことで不安は増えた。
けれど目を閉じて昔の、円堂くんと笑いあっていた頃のことを思い出すと、そんな不安は吹き飛んだ。目を開けて現実の味気なさを噛み締める度に、どうしようもない虚無感だけが胸にべったりと残ったが、それでも過去に立ち返ることをやめることは出来なかった。



大人になってからも円堂くんと連絡を取り合うことはあったが、それもお互いが多忙のために雀の涙ほどの回数であって、直接顔を合わせるだなんてほとんど皆無だった。だから、久しぶりに円堂くんから電話を貰った時は本当に驚いた。ずっと聞いていなかった円堂くんの声に、心がじわじわと溶けるように温かくなるのを感じて、年甲斐もなく涙腺が緩んでしまったのは記憶に新しい。けれど、一体なんの話かと嬉々として耳を傾けた俺が聞いたのは、失礼にも円堂くんには縁もないと思っていたような話だった。

『俺、結婚することになったんだ』

そう言われたときにはもう頭の中が石灰をぶちまけたかのような白に塗りつぶされていた。一体なにに失望したのかはわからない。いや失望だったのかすらわからなかった。その後円堂くんが結婚相手との馴れはじめだとか雷門中がなんだとか言っていたけれど、そんな言葉はすべて思考の彼方へと旅立っていた。うん、うん、と機械的に相槌を打っているうちに、電話はブツリと切れてしまっていた。かろうじて耳に残っていたのは『三日後、夜8時、約束』という言葉だけだった。

電話が切れ、ようやく脳内に色が戻ってきたときはじめて感じたのはどうしようもない怒り、焦燥、そして悲しみ。子供の頃はなにをするにも一緒で、些細な幸せも二人で共有するからこその幸せだったのに。今円堂くんは一人で未来を歩いている。一人で幸せを探している。どうして俺を、置いていくの!

久しぶりに会えるはずなのに、あれだけ見たかった円堂くんの顔を、はじめて見たくないと思った。




「ようヒロト、久しぶり」

居酒屋の暖簾をくぐった円堂くんが座敷に座る俺に手をふった。手をふりかえしてみたもの、昔から変わらないオレンジ色のバンダナが妙に癇に障ってうまくは笑えなかった。
席に着いて早々円堂くんがビールを注文する。ヒロトはどうする、なんて聞かれたところで俺は酒が全く飲めなかったから、烏龍茶がいいとだけ言った。アルコールの匂いが蔓延するこの店では俺一人だけが肩身の狭い思いをしているようで、とどいたビールジョッキをあおる円堂くんを直視できなかった。昔の円堂くんなら、きっと大好きなオレンジジュースを頼んでいただろう。

こんな店じゃなくてもいいのに。ふいに昔みんなの集合場所と化していた河原を思い出した。別に誰が言い出したでもないのにみんなが河原に集まってボールを蹴り合う光景は、どこかくすぐったくて、それでいて、自分もその風景の中の一部として存在していることがなにより嬉しかった。あの頃は、

「…それでな…って、どうしたんだヒロト?」

はっ、と気付いたときには目の前で箸を握る円堂くんが見えた。ついさっきまで河原で走っていた円堂くんは、もういない。

「えっ、ああ、…ごめんね、なんでもないよ」

思ったよりも低い声が零れたけれど気にも出来なかった。もしかして不審がられただろうかと思ったが、酒の力も手伝って特に気にすることもなく円堂くんは話を続けた。どうやら円堂くんの近況を説明していたようだ。近況というだけあって、円堂くんの口から出るのは今の話ばかり。それ、俺がどんな気持ちで聞いてるかわかってるの?アルコールの匂いも相まっていい加減頭が霞がかってきた。だからだろうか、意識せずに本音が口から飛び出したのは。

「昔の方が楽しかったな」

言った途端、一気に頭の霧が晴れた。慌てて前を向いたら、ハッとしたように目を見開く円堂くんが見えた。そうして、間を置かずにその表情がぐにゃりと歪む。その瞬間、冷水を頭から被せられたように血の気が下がった反面で、体の底から温かな希望がパチパチと湧き上がるような高揚をおぼえた。俺はなんて薄情な人間か。
気がつけば、俺たちはどちらともなく店を出ようと言い出していた。



店の暖簾をくぐってからは、俺も円堂くんも一言も喋らなかった。あれだけ饒舌だった円堂くんもその形を潜め、今は泥ひとつ付かない真っ白なシューズのつま先を見つめながらとぼとぼと肩を落としたようにして歩いている。あれだけ求めていた昔の元気な円堂くんとは程遠いはずのその姿に、俺はやっと肩の荷が下りたような気さえして、たまらず自分が恥ずかしくなった。詰まるところ、俺は円堂くんに「今の俺」の陰を求めていただけだったのだ。もし円堂くんが昔のままだったならば、俺はきっと、一生円堂くんとは顔を合わせられなかったに違いない。人ひとりいない寂しい一本道を、俺は口を噤んだまま歩き続けた。


「なあ、なんか飲み物、買っていいか」

ぽつりと立っている自販機の前で円堂くんが言った。別に俺に了承をとる必要なんかないだろうに、円堂くんはどこか縋るような目をして言う。もう円堂くんの家はすぐそこだった。少し迷ってからこくりと頷くと、本当に小さな声で「ありがとう」と円堂くんが言った。それはこっちの台詞なのに。
円堂くんが飲み物を買う間、俺はどこか座れそうな場所を探して辺りを見回した。円堂くんの家の方向には何気なしに背を向けて。空は真っ黒で辺りの景色はよく見えなかったが、それでもここがどこかはよく分かった。

「ここ、みんなでよく遊んだよな」

後ろから円堂くんが言った。その手にミカンのラベルが貼られたペットボトルが握られているのを見て、喉の奥が引っ付いたような痛みを覚えたが、それには気付かぬフリをして目の前に広がる懐かしい河川敷の風景を見つめた。

「昔はみんな、誰が言ったでもないのにここに集まって練習してたよね」

特に円堂くんはいつも一番に来てたっけ、そう言ったら円堂くんが照れたように笑った。居酒屋では見せなかったその表情に、勝手ながらほんの少しだけ心が軽くなる。そうして笑いあっていたら、ふと円堂くんが河原に降りようと言い出した。勿論最初からそのつもりだよ。円堂くんの右手にちらりと視線を走らせてから、間を置かずに二人で河原へ踏み出した。

降り立った懐かしい河原から見える街の風景は、さすがに十年近く経っただけあってあの頃とは殆ど違ってしまっていた。二人で記憶をたぐり寄せながら、あれが違う、これが違うと間違い探しをしていたら、昔と同じものは指で数える程しか残っていなかったのだ。

「これじゃあ昔を懐かしむことも出来ないな」

そう言った円堂くんの顔は見えなかった。ただ、しみじみ、という色を滲ませたその声に、俺はまた喉がひきつるように痛くなった。そうしてその痛みが喉から心臓にへと流れ込み、とうとう胸までもがジリジリと激しい痛みに苛まれたはじめた。痛みに俺の喉がひくりと嗚咽のような音を漏らす。その音に円堂くんが小さく肩を揺らした。

「俺も、変わったなあ」

円堂くんの肩がその声同様に震えていた。泣いているのかと耳を澄ませてみたが、どうやらそうではないらしい。そこでまた、ひくりと喉が鳴った。これじゃあ俺が泣いているようだ。もう涙なんて、きっとあの頃のように零すことなど出来ないだろうに。

俺も、変わったのか。

あるはずのない涙を我慢するように空を見上げる。夜の帳を張り巡らせた空にはぽつりぽつりと小さな光の粒が散りばめられていて、その淡い光がすっと瞳に染み付いた。昔この輝きのために夢中で覗き込んだ望遠鏡は、今はどこへやっただろうか。大切なもののはずなのに、今ではその形すら朧気にしか思い出せなかった。

一口も口をつけていないジュースを持つ円堂くんの右手で、星屑のような鈍色の光の輪が輝いている。きっと円堂くんはこの先どんなに辛くたって大丈夫だ。これからまた大切なものを作って、守って、そうして俺と一緒に眺めた星の名前も思い出せなくなる程の幸せを掴むだろう。円堂くんの未来には、確かな幸せが手を差し伸べているのだ。だから。

「ね、円堂くん、もう少しだけ、一緒に」

だから、もう少しだけ、今日が終わってしまうまで。俺と一緒に苦しんで。振り向いた円堂くんはやっぱり泣いてはいなかった。円堂くんがなにも言わずに俺の隣に腰を下ろした瞬間、俺は恥も何もかもを忘れてわんわん声を上げて泣いていた。こんな風に泣くのはもう今日この日だけにしよう。どうせこの涙も、星の名前や望遠鏡の在処と共に忘却の彼方にへと消えてしまうのだから。

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避けられぬ変化に苦しむ二人と、



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