今まで朝はただぼんやりと会社へ向かうだけだった。仕事をするためになるべく疲れない早い電車を利用している。乗り換えの関係で、この時間はあまり混まないのだ。
「あ」
一晩で随分馴染んだ坊主頭を電車の外から見つける。
「おはよう巣山」
「あ、栄口…はよ」
優しく微笑む巣山の隣に腰をおろす。今日も隣の坊主はスーツがよく似合っていた。
「巣山さ、スーツどこで買ったの?」
「ん、ああ…」
店の名前を聞くと、行ったことのない店だった。さすがにまだ若いからオーダーメイド、というわけではなかったけれど、いいスーツだった。
「俺も一着いいスーツ欲しいなー」
亡くなった母から聞いたたくさんの言葉を覚えている。言葉の美しさとか、優しさとか強さとかに魅力を感じて、言葉について学びたいと思った。で、大学で教員免許を取ったのはいいけど…採用試験に受からなかった。今年また受けるつもりだ。運よく入社できた雑誌の会社で編集の仕事をしている。
ちょっと良いスーツ買って、それを着て教壇に立つのが夢だったりする。
「そうか」
家族にしか話していない「教師を目指している」という話を知らない巣山は、楽しそうに頷いた。
「まあ良いスーツだと、身も引き締まるわ」
「良いモノってやっぱ特別だよね」
「うん」
走る音以外は静かな車内。俺と巣山は小声で話す。
「あ」
「ん?」
「…ううん、なんでもない」
最寄り駅を知らせるアナウンスが聞こえて、メールで知らせることにした。
そういえばいい感じの公園があったっけ。俺の手帳には、週末の予定に「巣山とキャッチボール」と書き込まれている。
「じゃあ、また」
「おう」
簡単な挨拶を交わし、電車を降りた。
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