雨は嫌いだ。
髪が湿気でうまくまとまらないとか、そんな可愛い理由ではなくて。
あたしは痛む頭と、雨足の強さと比例する耳鳴りに目を覚ます。
厚手の羽布団から顔だけを覗かせてカーテンの向こうを窺えば、風もなく穏やかに降り注ぐ雨。
その様は、恵みのそれと言っても過言ではないだろう。
でも、あたしは雨が死ぬ程嫌いだ。
死ぬ程雨が嫌いなあたしは、そんな些細でちっぽけな自分が大嫌いだった。
嫌い嫌いの無限連鎖。
本棚の中でぼうっとブルーに浮かび上がるデジタル時計を見れば、夜中の三時を示している。
何とか眠ってしまおう、と薄闇の中でサイドボードから薬を出す。
乳白色の小さな錠剤を三つ口に放り込み、そのまま嚥下。
喉奥のごろごろする感覚が引いた頃に、偏頭痛を連れてあたしは再び夢に落ちた。
ふわりふわりと、雨が段々遠退く。
雨音がしてからずっと思い出していた過去の記憶の混濁が始まり、様々な思考や音が交錯する。
やがてそれがひとつひとつ溶けてクリアになれば、四肢は勿論、五感もなく真っ白なワンピースと素足という格好であたしは暗い森の中に立っていた。
「(森林浴…というよりかは、樹海…)」
ぐるりと見回して、溜め息。
コンクリートジャングルに見慣れたあたしは、死体のひとつでもぶら下がっていそうな雰囲気にのまれそうになる。
このまま立っていても仕方が無いのでとりあえず座り込もうと適当な木を見つけて凭れかかる。
視覚的には薄く霧の立ち込めるそこだが肺に入る空気は乾いている。
早く夢の無い眠りにならないかなぁ、と一人踞っていると景色がぐらりと変わった。
「え、?!」
驚いて立ち上がると足下からずるりと地面に飲み込まれる。
ぞりぞりと足を食らう地面に鳥肌が立った。
夢と言えど、恐怖はある。
次第に重くなって行く脚。
膝まで埋まった瞬間、ずきりと鈍い痛みが走った。
それから、暗転。
「(シュミの悪い夢…)」
漆黒に塗りつぶされた視界に仄暗い青が写り込んであたしはそれが自分の瞼だと気付く。
「あれ、起きた?」
薄く開いた瞼の向こう、焦点の定まらない半分程度のの視界の中、黒いファーコートがちらちらと視覚を刺激する。
誰かなんて、その涼やかな声でわかるけれど状況を把握するまでにあたしは何度か瞬きを必要とした。
「たまたま近くに寄ったからね、雨宿りさせてもらったよ」
二人掛けのソファに寝そべっていた臨也に、覚醒したあたしの頭がずきりと痛む。
「…、合鍵まだ持ってたの」
「返せって言われてないからね」
「雨の中、わざわざご苦労さ…ケホッ、っあ」
「つばさ?」
咽せ返ったあたしに臨也が眉根を寄せた。
口元に手をやって、引っかかっていた物を吐き出す。
唾液に混じって半分溶けた白い錠剤が手のひらに出され、あたしは顔を顰めた。
ベッドから抜け出してキッチンの流しで手をすすぐ。
こんなに早く起きたのは、成る程、薬が詰まったままだったからか。
未だに異物感の残る喉元を擦っていると臨也は面白くないといった様子で鼻を鳴らした。
「…どうせ水も使わずに飲んだんだろう?」
「うるさいなぁ」
探る様な視線に居心地の悪さを感じ、低い猫足のテーブルに目を移すと折り鶴が三羽乗っていた。
飴か何かの包み紙でできたそれは銀色に鈍く光を反射する。
「いつからいたの?」
「二時間前」
「……そう」
「魘されてたけど、」
「元カレの分際で、そうやって人のプライバシー覗かないでくれる?」
あたしは精一杯、臨也の言葉を遮る。
そう、あたしと臨也は所詮は元恋人同士というやつだ。
お互いに、お互いを思いやる事が何よりも難しかったあたしたちはどことなく仄暗い感情を残したまま静かに別れた。
別れた日に、事件は起きる。
折原臨也の恋人だと知った、彼に恨みのある人間があたしに危害を加えたのだ。
まさかのタイミング。
バケツをひっくり返したような雨の日。
よく解らないまま病院のベッドで目を覚ましたあたしの足はまるで熟れすぎた果物のようになっていた。
入院していた頃は、襲われた事を思い出して何度もパニックになったものだけど今はもう落ち着いている。
退院し帰宅したあたしは自室のあらゆる所に彼の香りや気配を感じて、ぽっかりと胸に穴が開いたまま生活していた。
そのうち眠れなくなり、そのうち吐き出し、そのうち人を避けるのが当たり前になり。
「ねぇ…、もしかして眠れないの?」
「…一人前に罪悪感を感じてるんならこれ以上被害者が出ない様にすればいい…あたしには関係ないけど」
「俺にできることは無いって?」
「…ない」
じっと赤い目を見詰めて言えば、彼は一度目を伏せて「そう」と無感情に呟いた。
立ち上がり、あたしの横をすり抜ける。
ふいに香った懐かしい、胸のネジをキリキリと巻く香りにあたしは唇を噛んだ。
目や鼻の奥がつんとして、今にも感情が形になって外に出ようとしている。
ドアに手を掛けた背を直視できずに、あたしはただ窓の外の雨を呆然と見ていた。
網戸に付着した雨粒はまるで人形の目のようにそれぞれが街頭の白い光を反射している。
体は動かないけれど、その背中に頬を寄せたい衝動は理性を振り切ろうと心の中で暴れる。
「い、ざや、」
震える唇で彼の名前を言うと、自分がどうしようもなく弱く思えて悔しさのあまりに涙が零れた。
ぴくりと反応した背中。
ゆっくりこちらを振り返り、臨也は溜め息を吐いた。
その溜め息に、昔彼から言われた言葉を思い出す。
「俺にどうして欲しいの?」
嫌味ではなく彼は心の底からそう思ったのだろう。
困惑に染まった瞳がひどく苦しそうで、あたしは責められているような気がしてその時は口を噤んだ。
今思えば、臨也ほどの人間がたかが女一人に手を妬くなんて笑い話だ。
「どうされたいか」わからないあたしと、「どうしたらいいのか」わからない臨也と。
嗚咽に混ざって言葉を発しない唇がはくはくと動く。
こんなに感情があるのに、何も伝わらないなんて。
テーブルの上の鶴がカサリと音を立てて崩れた。
支え合っていたそれらが、重なり合う。
「笑い話だよ…俺は、君のために祈るぐらいしかできないんだからさ」
再び室内に戻って来た臨也は、シンクの前に立ち尽くしていたあたしの前に立つとこちらを覗き込む。
「俺がこんなに媚を売る女、つばさぐらいだよ」
難しい顔であたしの頭と腰をそっと引き寄せる臨也が「今日だけ、」と呟いた。
肩口に顔を埋めれば、肺すべてが彼の香りに満たされる。
「(あたしたちはまるで鏡だ、)」
ネザーランドドワーフは雨に泣く
(110321)
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中田さんより頂きました!
わたしがシリアスを読みたいと呟いたところ、書いてくださったものです!
中田さんなんて仕事が早いの。
すぐ生産してくれるなんて優しすぎです…!
ありがとうございます!