―私は彼が大嫌いだ。


 名字名前は、眼前にいる少年を睨んだ。睨まれた少年は特に気にした風もなく「今回は少し難しかったですね」と一枚の紙を持ちながら微笑んだ。

 白々しい。名前は思う。

 彼女は知っている、そう言いながらその紙には、少なくとも名前よりは高くいい点数が書かれていることを。この少年が難しいと思うことに本当に難しいと思っていないことを。

「名字さんはどうでしたか?」

 憎らしい。名前は思う。

 今、自分が彼を睨んでいる時点で彼より点数が低いことなど明白であろうに。

「降矢くんよりは低いよ。」

 なんとかそう口に出すが、口内の水分がなくなってからからになっていた。自分の持っている一枚の紙をぐしゃぐしゃにしてしまいたい衝動に駆られながらも必死に堪え、「私、席に戻るから」と相手の返事を待たず立ち去る。その後ろ姿を見ながらああそうですかと降矢竜持は微笑んだ。

 ああもう、本当に腹が立つ。名前は取り出した赤ペンをぎゅっと掴んだ。外で降る雨が私の心をきれいに洗い流してくれたらいいのにと願った。



 名字名前は優秀だった。運動能力こそ普通であったが、勉強においては小学生時代、何時だって頭がいい、賢い子だと誉められた。勉強は彼女にとって全く苦ではなかったし、褒められる度に名前は自分に誇りを感じられた。

 そんな名前が、彼・降矢竜持に出会ったのは中学校に進学した時である。

 数学のクラスをレベル別にするとうことで初回の授業でいきなりテストがあった。それは小学校の復習レベルから中学校で習うようなレベルの高いものもあった。名前はだいたいの問題を埋めることができたけれどやっぱりこれから習うようなレベルの高いものは難しかった。そうして次の授業の前にテスト結果からレベル別のクラスが決まった。一番上のクラスだった。その中に彼もいた。名前ははじめ、「あ、彼も同じクラスなんだー」と同じクラスの人間を発見して素直に喜んでいた。

 レベル別のクラスで一番初めに行われたのは、答案の返却だった。名前の点数は90点。あのレベルの中でこれならばまずまずだろうと満足した。そんな時、教師が「降矢は100点満点だ。すごいなー、なかなかいないぞ」という言葉が聞こえたものだから顔を上げた先に彼がいた。名前はびっくりした。まだ習ってないこともあるのに満点だなんて、と。しかも褒められて照れることもなく、平然と、それが当然のようにしているその姿に90点に満足している自分がちっぽけに見えた。

 ―悔しい

 名前に浮かんだ感情は、嫉妬であった。一生懸命勉強して勉強して勉強しか取り柄のないといっても過言でない名前にとって初めて“敗北”を感じた瞬間であった。せめて相手が誇らしげにしていてくれたら違ったのかもしれない。でもそんなものはもうわからない。少なくとも今名前は彼に負けたということが悔しいと思ってやまないのだったから。



 それ以降、名前はずっと彼に嫉妬し、「次こそ負けない」と勉強した。予習も復習もかかさず、宿題もしっかりやる。定期試験で勝ってやると意気込んでいた。

 結果、また敗北した。

「初めての定期試験だったけどみんなよく頑張ったなー。しかも一人!百点満点がいる。次が98点。いやーすごい高得点。」

 今度こそと思いながら教師に名前を呼ばれるのを待機する。「名字」と呼ばれ、前に進む。「よく頑張ったなー」の一言と渡された紙には“98”の文字。愕然とした。もしかして、もしかして、もしかしなくても。いやでもそんなことはと頭の中でぐるぐると回っている中で「次、降矢―」という言葉にばっと頭をあげる。じっとそれを見つめる。耳を立てる。静かとは言えない教室の中でそこだけの音を聞き取ろうと必死になる。

「降矢は数学が得意なんだな、お前だけだよ。百点は。」

 そういう教師とそれを当然のように受け取る姿。またもや名前は彼に負けた。しかも悔しいイベントはまだ続いた。

 すべての定期試験が返却されたあとに試験の順位が書かれた成績表を渡された。そこには全てに“2番”の文字。もしかして。頭がさっと青くなる。

「えー、降矢すげえー!全部1位とか!化物かよー。」

 教室で聞こえる男子の言葉に唇をきゅっと噛んだ。チャイムがなり、放課後になった時、「降矢くん」と声をかける。

「えーっと名字さんですよね。どうかしましたか。」

 一方的に敵視していた為に彼は名前のことをただのクラスメイトの一人としか意識していなかった。当然といえば当然である。しかしそれが名前にとって自尊心を傷つけられたと受け取れた。

「次は…、」

「はい?」

「絶対負けないから!」

 きょとんとしている彼に対し、名前は宣言するだけ宣言し、だっと廊下を走った。それが彼女と彼の邂逅である。



 それからしばらくして彼は名前がどういう感情を自分に向けているのかを理解した。そして面白そうに彼女に絡むようになった。それに名前はイラつきながらも勝てばいい、勝てばと自分にひたすら言い聞かせていた。




 ―そんな付き合いがはや3年目を迎えていた。




 名前と彼の、名前による一方的な勝負は、未だに彼女に白星をつけていない。

「今回も負けた!!」

「あんたいい加減に諦めたら。別にあんた勉強できるんだし。いいじゃん。」

 そういう友人に名前はきっと彼女を睨みつけた。

「私、勉強しか取り柄がないのにここで負けを認めたらこの先どうしたらいいの!?」

「中3で勉強しか取り柄がないって悟ってる女子なんて…なんかやだ…。」

 うえーっと言いながら引いてる友人に対してこれ以上何をいっても無駄だと悟り「もういい、私塾行く」と帰り支度を始める。

「まあー頑張ること。私は部活いくわー。」

「うん、頑張って。」

 そういうが早いかさっさと教室を出る友人を見送る。扉の前で「でも本当なんか勉強以外のこともしなよ。灰色人生もいいとこじゃん、そんなん」という忠告を名前はつんと無視した。苦笑しながら去っていく友人を見ながら名前は呟いた、そんなもの知ってる。

 誰もいない教室で一人机に座り、ノートと教科書を丁寧にバッグに閉まっていく。丁寧に丁寧に詰め込みながら名前はファイルから今日返却された答案用紙を見つめる。凡ミスが1つと単純に解けなかった問題がいくつか。塾で同じような問題コピーしてもらって復習しないと思いながらそれを綺麗に折りたたんでファイルに戻す。



 昇降口へやってきたところで最も会いたくもない人間に名前は出会った。

 その顔を見た瞬間「うわ」と小さく呻いた。慌てて手を抑えるが、「聞こえてますよ」とため息をつかれる。むっとするが、先に失礼なことをしたのは自分なことはわかっているので黙る。ふっという小さな声がかすかに耳に入った。若干の申し訳なさを感じながら靴を履き替え、外に出ようと彼の前を通り過ぎようとするとふいに手首を捕まられ、後ろに倒れかける。勿論、手首を握っている人物は彼なわけで。その事実に名前は思わずぎょっとする。じっと名前を見つめる彼に「なに…?手、離して欲しいんだけど」と居心地悪そうにする。

「そんなに僕のこと、嫌いですか。」

「へっ!」

 直球すぎる質問にびっくりした名前は素っ頓狂な声を出して彼をまじまじと見つめてしまう。その顔は、名前にはなんとも形容し難いものだった。

「嫌いっていうか…別にそういうわけじゃ…。」

 改めて問われると答えにくい質問にしどろもどろになる名前。一方的に悔しいと敵愾心を抱いていたことは確かだし、彼の態度が気に食わないといえば気に食わないのもまた事実だ。だからといって嫌いかと問われるとなんとも言えない。

 もごもごしている名前に彼はふうと溜め息をついて「僕はあなたのこと気に入ってますよ」と爆弾を落とす。

「え…?は…?それはからかうのが楽しいっていうこと…?」

 名前は普段積極的に彼に絡もうとしないが、彼が絡んでくることからそれなりに降矢竜持という人間性を理解しているつもりである。意地悪で、よくいえば大人っぽい、悪く言えば子供らしくない。そんな彼が“気に入る”なんて言葉を使うなんて名前の中では嫌なイメージしか抱けなかった。そのせいで自然と言葉に怒気が篭る彼女に対して竜持は「いいえ?」と笑顔で否定した。

「好きだという意味で気に入ってるんです。“like”じゃないですよ、“love”の方で。」

「は…?」

 突然の告白にさすがにぽかーんとする名前となんでもないように微笑む竜持。

「は、いや、え、なに?いきなり。私のことからかってるの?そんなこと言ったって私、勝ちを諦めるつもりとかないから。」

 顔を赤くしつつもすぐさままたからかわれていると思った名前は、両目を釣り上げ睨みつけるが、竜持は特に気にした風もなく「だから冗談じゃないですってば」と肩をすくめた。なまじっか顔がいいせいでそういう仕草が中学生のくせに似合うのがまたむかつくと彼女は思った。

「だから僕、名字さんが僕に挑んできてくれるの嬉しいんですよ。」

 思わず、小さくだが、マゾなのとつぶやくと流石に不愉快だと思ったらしく「違いますよ」と眉をひそめ否定した。

「だからそういった見え透いた嘘をつくのも女子校に進学するのはやめませんか。」

 その言葉に名前は、今日一番の驚きをせざるを得なかった。

「え、なんで知ってるの…。」

 それまだ先生と両親にしか言ってないのにと呆然としていると「友達がそのお話を偶然聞いてたらしくて」と種明かしをされる。

「このまま負け続けているのが悔しいから女子校に行くんですか?もしそうならそれこそ“完璧なる敗北”だと思うんですけど。諦めるつもりなんてない、なんてよく得いますね。」

 その言葉にかっとなる。どうして、どうしてそんなこというの。

「別になんでもいいじゃない。私がどこに行こうと私の勝手じゃない!降矢くんにどうこう言われる筋合いなんてないのに!」

「僕は名字さんと勝負するの楽しいですよ?」

「はっ、毎回負ける私を見てあざ笑うのが楽しいの?悪趣味!」

「僕は一度も名字さんのことを嘲笑ったことなんてないですよ。むしろそんなことする人がいたら僕が水でもぶちまけてあげますから。なんならサッカーボールとかがいいですか?僕、サッカーやってたんでコントロールには自信ありますよ。別の競技でもそれなりにこなせる自信もありますけど。」

 内容こそちゃかしてあるもののあまりにも真剣な顔つきの彼に、名前は戸惑いを隠せなかった。なに、なに。彼女の知っている彼とはあまりにも違う。名前の知っている降矢竜持は真面目な顔をして人をからかう人間なのに。それなのに今の言葉には一切からかいが感じられない。

「負けるのが嫌だから一生懸命努力する名字さんが僕は好きです。あなたに試験で挑まれる度に嬉しいですし、だからこそ女子校なんてさすがの僕も入れないんでやめてくれませんか。共学にしてくれないと。」

 なんだそのむちゃぶりはと思いながらぼたぼたと名前の目から涙が落ちた。

「…だって私、勉強しか取り柄がないんだもん…これ以上…負け続けるのいや…。」

「僕の告白は無視ですか。試合放棄ですか。僕にはそれで名字さんが満足するとは思えないんですが。」

「い、いいでしょ!だって降矢くんに負けるのホントすごいむかつくんだもん!ほかの子ならまだしも、すごいムカつくんだもん!降矢くんが確実に行かないとこって考えたら女子校行くしかないじゃん!」

 ああやっぱり告白なんだと思うが、嬉しいとかそういった感情よりもほかの感情が名前の中で上回る。

 試合放棄なんて本当はしたくないが、正直これ以上勝負を仕掛けても勝てる自信もなくなってきているのだ。実を言うと昔は、それこそ最初の方はわりと勝負を仕掛けるのは楽しかった。それなのに最近はそれがさっぱりなのだ。勉強だけが取り柄の名前にとってこのままの状況が続くとどうなるのかわからないし、怖い。ならば試合放棄でほかの、彼がいないところに行ってしまったほうが気は楽に思えた。

 涙と一緒にぶちぶちと勝手な文句を垂れ続ける。ああなんで私、ここで一番知られたくなかった部分、一番知られたくなかった人間に暴露しているんだろうと思うのに口は止まらない。

 深い深い溜息が目の前から聞こえてくるので下に向けていた視線をあげた。

「じゃあそれで後悔したらどうするんですか。」

「…知らない。」

 そこまで考えてない。そこはなるようになると思っている。この状況がまず苦しいのだ、それを打開することに血路があると信じていた。

「仕方ないですね。」

「…?なに…?」

「名字さんはそのままどうぞ女子校なりなんなりお好きに進学してください。」

 今度は今度でその言葉に名前は驚いた。え、さっきと言ってること違うじゃないと。

「そしたら僕は同じくらいの偏差値の学校に進学するんでそこで勝負しましょう。」

「は?!」

「そうすれば名字さんは僕と勝負もできるけど一番も存分に狙えるじゃないですか。ね、いい折衷案だと思いませんか?」

 意味がわからない、それって折衷案なのと思わず名前は笑ってしまった。

「だから僕と付き合ってくださいよ。」

 きれいに微笑む彼を前に彼女はようやく顔を赤らめ「少し考えさせてください」と呟いた。雨はいつの間にか止んでいた。






(130418執筆 スイミー様提出)
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