おまじないのようなものだった。



「誰かいるの?」

まるでバケツいっぱいの墨汁を目の前でひっくり返された様に、振り向いた先は暗闇であった。俺の周囲を照らすキッチンの灯りは、ダイニングには届いても、更に奥のリビングまでも照らすことはなく依然暗いままである。深夜、既に家族は寝静まった後で、静寂と暗闇が家主に代わって図々しく居座る我が家に姿なく発せられた声は、嫌によく響いた。恐らくリビングから俺に呼びかけたのであろう人物は、暗闇に隠れて体の輪郭ぐらいしか把握できなかったが、誰かなんて、声ですぐにわかってしまった。

「俺」

声のした方に身体ごと向き直って食器棚に背中を預けた。誰か、という問いかけに対し「俺」と返答することはこの場合適切ではないのだろうが、きっと向こうには灯りに照らされた俺の顔が見えているのだから、問題ないだろう。手に持っていた赤いマグカップに口をつける。ズズ、と行儀悪く音を立てて吸うと、懐かしい味が舌の上にゆっくりと流れ込んできた。相変わらず、甘ったるい。

「なんだあ、凰壮か」

声の主は、泥棒とでも思っていのだろうか、どこか安堵したような声を出した。きっと、締まりのない顔で笑っているに違いない。姿は見えなくても、想像するのは、とても容易いことであった。俺たち兄弟が生まれたころからの付き合いである。(とは言っても、会うのは、年に数回程度であったが)
程なく、暗闇の中から徐々に姿を見せた名前が、想像していた通りの締まりのない顔で微笑んだ。ダイニングとキッチンを隔てるカウンター越しに、顔を覗かせる。

「何してんだよ、こんな時間に」
「凰壮こそ、何してるの?」
「俺は寝れないからココア飲んでるだけ」
「あ、いーなココア。私にも作ってよ」

人の家で図々しくも夜中にココアなんて強請る名前を一瞥する。俺の視線の意味など分からない名前が、首を傾げて見せた。「はあ」と、正直面倒くせえなあと思いつつも、先ほど冷蔵庫にしまった牛乳を取り出す。

「ありがと」

へラッと笑った名前が、カウンターに肘をかけて、ココアを作る俺を眺めた。やけにニコニコしているもんだから、思わず「なんだよ」と睨むと「凰壮、お母さんみたいだねえ」と言う。どうして自分より十四も歳上の娘がいないといけないのか。それ以前に、俺は男だ。

「そっち座ってれば?」

見られているのもなんだか落ち着かない。俺は顎で、カウンター傍の食卓を指して、座る様に促した。「灯りつけてもいい?」と名前が尋ねる。好きにしろよ、と答えると、軽い音と共に、灯りが点滅して、すぐにダイニング一帯を照らした。
椅子に座った名前が、揺り籠みたいに、身体を小さく揺らすのが見える。鼻歌を歌っているようだった。随分、機嫌がいい。ココア一つでこれほど機嫌がよくなるのだから、安い奴だ。

「ほらよ」
「ありがとう」

作り終えて、さっきまで飲んでいた自分の分と一緒にダイニングまで持って行く。名前の前にココアの入ったカップを置くと、名前が俺を見上げてお礼を言った。一瞬、不思議な感じがして、「ああ、うん」と適当な相槌を打つ。俺は、名前の向かいの席に座った。ココアを冷ますように息を吹きかける名前を、頬杖をついて眺める。

名前の身長を追い抜いたのは、いつだったのだろうか。

物心ついた頃から見上げていたはずの名前に、いつの間にか見上げられるようになっていた。昔は、名前が座っていても、立っている俺の方が小さかったのに。

「で?なんでこんな時間に起きてきたんだよ。明日早いんだろ?」
「うーん……」
「……なんだよ」

はっきりとしないように唸った名前を、訝しげに見つめた。
名前はカップの中のココアが冷めるのを待っているのか、スプーンで緩やかにかき混ぜている。けれどもどこか、虚ろだった。

「……マリッジブルーってやつかなあ」

自分の悩みを吐露するのが恥ずかしいのだろうか、モゴモゴとはっきりしない声で、独り言のように呟いた。
名前はスプーンをかき混ぜるのをやめて、今度は両手でカップを持ち直す。グルグルと渦を巻くココアを、覗き込んだ。
まるで叱られた子供みたいな仕草をする名前を、俺はココアに口をつけながら眺めた。口の中が、また甘ったるくなる。けれども、先ほど以上の甘味は感じられない。舌がなれてしまったのだろうか。それとも、冷めてしまって味が落ちてしまったのかもしれない。ぼんやりと、そんなくだらないことを考えた。


名前は母方の親戚で、俺たちの従姉にあたる。明日は彼女の結婚式だった。
名前の実家はもっと田舎にあるのだが、今は東京で働いているので、結婚式は東京で行うことにしたそうだ。今日は、結婚式前日に東京にやってきた名前の両親が家に泊まるということで、名前も家に泊まることになった。嫁ぐ前日くらい、親と一緒にいたいと言って。(因みに、名前は新郎になる男と同棲中であるために、叔父たちが遠慮したそうだ)

結婚式前日にマリッジブルーなんて、こいつはとんだ鈍間だ。それに、今から破談にしようたってできやしないのだから、悩むだけ損じゃねえか。マリッジブルーなんて、結局は杞憂でしかない。もしもそれが杞憂でないというのなら、問題が表面化してから考えればいい。最悪、バツが一つできるだけだ。


「くだらねえこと言ってないで飲めば?冷めるぞ」

冷たくあしらうような俺の言葉に、名前は苦笑いしながら頷いた。俺に慰めてもしてもらいたかったのだろうか。俺がそんな親切な人間ではないことなど、当の昔に知っているだろうに。
ふう、と名前はもう一度カップの中に息を吹きかけてからココアを飲む。すると今度は「あ!」と驚いたような声を漏らした。

「凰壮、蜂蜜いれたの?」
「ああ、わかった?」
「わかるよ、私もいつも蜂蜜いれるもの」

美味しいよね。と、先ほどまでどこか元気のなかった名前が、嬉しそうに笑った。
今泣いた烏が、もう笑った。俺の頭の中で、誰かが嘲笑したように言った。たぶん、竜持だろうな。頭の中の竜持。本人が寝ている間も、皮肉を言うためにわざわざ、ご苦労なことである。
斯く言う俺も、やっぱりこいつ安い奴だなあ、と声に出さずに思った。ココアに蜂蜜が入っていただけで、喜べるんだから。

本当は、ココアに蜂蜜いれるの、名前に習ったなんて、こいつ覚えてないんだろうなあ。鳥頭だから。

名前に気付かれないように、小さく笑った。




「誰かいるの?」

数年前のその日も、暗闇で誰かが問いかけた。暗い廊下で立ち止まって、振り返る。

「俺」
「なんだあ、凰壮か」

見上げた先にいるのは、まだ小学校に上がっていなかった俺より、ずっと背の高い名前。たぶん高校生くらいだっただろうか。記憶の中の名前は、今よりもずっと若かった。(幼さは今と大差ないのだろうけど)
その日は名前の実家に、家族で泊まりに行っていた。

「どうしたの、こんな夜中に?」
「……寝れない」

いつもだったら、そのようなことは決してなかった。一番寝つきがよくて寝起きが悪いのも、三兄弟の中でも断トツで俺だった。その日だって、寝付いたのはきっと俺が一番だったに違いない。(虎太と竜持がいつ寝付いたのか知らないから、真偽のほどは確かではないのだが) けれども、枕が違ったのが幾分よくなかったらしい。寝心地が悪く、変な夢を見て起きてしまったのだ。今となっては内容まではよく覚えていないが、とにかく怖かったのだと思う。うなされるように目が覚めて、夢から解放されたのはよかったけれど、目が冴えて眠れなくなってしまったのだった。寝たいのに眠れないのは、苛立つものである。俺は一人布団を抜け出して、家の中を徘徊していたのだった。

「怖い夢でも見たの?」

図星をついてきた名前を、目を細めて睨んだ。怖い夢を見たのは本当だが、夢を見るのが怖くて眠れないわけではなく、あくまでも目が冴えてしまったからであった。(怖くて眠れないだなんて、怖がりな虎太じゃあるまいし)

「じゃあさ、ついておいでよ。いいものあげるよ」

返事をしない俺に、名前が人懐っこい笑みを浮かべた。子供の俺よりも、子供らしい笑顔を見せる、とぼんやり思ったことを覚えている。
そうして名前に言われるがままついて行ってもらったものが、蜂蜜入りのココアだった。「母さんが作るのと、味が違う」と言うと名前は得意げに「蜂蜜をね、一匙入れてるんだよ」と言った。

「これ飲んだら、身体温まって、すぐに寝れるよ」

椅子に座ってココアを飲む俺の目線に高さを合わせるようにしゃがんだ名前が、慈しむように笑った。
俺は、その顔を、まじまじと見つめた。
まるで、時間が止まってしまったかのようだった。

どうしてか、俺に微笑みかける名前から、目が離せなかったのだ。




「あったかいココア飲んだら、なんか眠くなった」

飲み干した空のカップを見て、名前がへラッと笑う。「そ」と短く相槌を打った。
名前が空になったカップを流しで洗おうとする。俺のも洗って、と一緒にキッチンについて行った。

「私洗うから、凰壮拭いてよ」
「なんだよ、めんどくせえなあ」
「ほらほら、我儘言わない」

こうやって時々年上ぶる名前に少しの不満を覚えつつ、名前が洗ったカップをフキンで拭いた。すると、名前がクスクス笑って「新婚さんみたいだね」と言う。思わず、動きがぎこちなくなった。
母親の次は新婚だって?節操ねえ奴。

「明日結婚する奴が、なにくだらねえこと言ってんの?」
「そうだ、明日結婚式なんだ。早く寝ないと、肌荒れちゃうね」

名前が、冗談めかして笑う。さっきまでマリッジブルーなんて言ってたのが、嘘みたいだ。本当に、節操ねえ奴。そんで、安い奴。

二人で二階に上がって「おやすみ」と短く言葉を交わして、自室の部屋を開ける。「凰壮」と名前が呼びかけた。振り向いて「なに?」と尋ねると「ありがとう」と、今日何度目か分からない礼を言われる。「何が?」と再び問い返したら「ココア、つくってくれて。飲んだら、なんだか安心したの」とそう言って、やっぱり、締まりのない顔で笑った。
部屋に戻る名前を見送ってから、俺も部屋に戻った。ベッドに潜って、天井を眺める。口の中に残った、甘ったるいココアの味が、少しずつ、薄くなっていく。それを感じるのと同時に、夢子の笑った顔が、瞼の奥でチラついた。思わず、眉間に皺が寄る。
折角ココアを飲んだのに、目をつぶってもなかなか寝付けなかなかった。
いつもはどんなに目が冴えてしまっても、あれを飲んだらすぐに寝つけてしまうのに。なんでかなあ。
なんで、夢子の顔が離れないのか。





次の日、新婦のいる家の朝は慌ただしく、騒々しさから、俺も目覚ましより早く叩き起こされることになった。簡単に身支度をすませてから、いつもは着ないフォーマルなスーツに身を包み、虎太や竜持と色違いの、赤の蝶ネクタイをつける。皆の準備ができたら、親父の車で結婚式場に向かった。そして、式の前に、先に結婚式場に行っていた名前の控室に、顔を出すことになった。

「失礼します」

俺たちの先頭の親父が、扉を開けた。
親父の後ろで大きなあくびをする俺。昨日、眠れなかったのが地味に響いている。後頭部を無造作にかくと、竜持が「凰壮くん、式で寝ちゃいそうですね」と呆れたように笑った。

「かもなあ」
「昨日ちゃんと眠らなかったんですか?」
「寝れなかったんだよ」
「どうして?」
「……」

どうして、と聞かれて言葉に詰まった。理由を聞かれても、そんなことわかるはずなかった。寝つけなかったから、としか言いようがない。
しょうがないので、さあな、なんて適当な返事をすると、前方から親父の「わあ、綺麗ですねえ」という声がしてのろのろと視線を送った。

――あ。

「ありがとうございます、変じゃないかな?」
「いいんじゃねえか?」
「馬子にも衣装ですよ」
「へへ、ありがと、虎太。竜持」

眩いばかりの純白のドレスに身を包んだ名前が、はにかんだ。唇が、いつもよりずっと赤いし、頬だって色づいてる。上げられた髪が、新鮮で、何より、幸せそうに微笑む名前に、俺は、目が離せなくなった。

「(あの時みたいだ)」

ぼんやりと、昔のことを思い出した。
名前が、ココアを作ってくれた時のことを。
あの時も、何故か目が離せなかった。


「凰壮、どうかなあ?」

名前が、伺うように尋ねてきた。
突然意見を求められて言葉に詰まったが、すぐに「悪くないんじゃね」と短く言うと、やっぱり名前は「ありがと」と言った。

「さあ、じゃあ僕たちは式場に行っていますか」

親父に引き連れられて、新婦の控室を後にした。
控室を出る時、一度だけ、後ろを振り返った。俺たちを見送る名前と目が合う。名前は笑って、俺に手を振った。
俺は、手を振りかえすこともなく、その場を後にした。


式は滞りなく行われた。例えば、映画の「卒業」のように、誰かが新婦をかっさらっていくことなど、なかった。恐らく寝るだろう予想されていた俺も、特に寝こけることもなかった。それはきっと、名前の純白のドレスがあまりにも眩しかったからに違いない。眩しくて、眠気が冷めてしまったのだ。その証拠に、例に漏れず、俺は名前から視線を外せなかった。
誓いのキスの時は、少しもやついた。
どうしてもやついてしまうのか、理由はわからなかった。
見たくもない名前のキスシーンなんて見せられて、不快に思ったのかもしれない。
きっとそうだ。そうに違いなかった。

そのもやつきの正体がわかったのは、披露宴の席であった。

全ての食事が終わった後に、ココアが出された。新婦の好きなものだからと、メニューに組み込んだらしい。
こんなとこまで来てココアか、と少し鼻で笑ってから、カップに口をつけた。

――あ。

一口でわかったのは、一匙の蜂蜜が入っていたこと。
名前の好きな、ココアの味だった。

途端に、あの日の名前の笑顔が蘇る。俺が、どうしてか、目の離せなかった笑顔が。
甘ったるくて、温かくて、どこか安心する、ココアと一緒に、どうして名前が思い出されるのだろうか。どうして、俺は昨日、寝付けなかったのだろうか。
どうして、俺は、誓いのキスで、もやついたのだろうか。

「(ああ、そうか……)」

もう一口、ココアを口に含む。目を瞑ると、瞼の裏に浮かぶのは、やはりあの日の名前だった。でもそれは、儚くすぐに消えてしまう。のど元を過ぎて、少づつ味が消えていくココアのように。

「(そうか、俺は……)」

フト、顔を上げて、名前の方に視線を送った。新郎に何か囁いて、互いに微笑みあっている二人が目に入る。目が離せなくて、ずっと見つめていたら、こちらに気付いた名前が、笑って手を振った。
俺は、苦笑いをして、ココアを飲む。甘ったるいのに、甘くない。



ああ、そうか、おれは、名前が好きだったんだ。


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