走り終えて適当な時間に家に戻ってみれば、外からでも分かるようないい香りが漂っていた。 考えを振り払おうと集中したかったのだが、見える景色があまりにも違いすぎて無駄だった。 こんな事なら大人しく家に居れば良かったか。
……いや、あのままだったら弥生に対し、行き場の無い感情をぶつけていたかもしれない。
普段ならば感情をコントロールできなくなる事など無いというのに。 戦う事を覚えてからは、自我を抑制する術も自然と身についてきた。 それが、この世界にいる事で壊されそうになっている。 俺が、俺じゃなくなってしまいそうな感覚。
とっくの昔に忘れたはずの感覚。
これを、恐怖というのだろうか。
徐に玄関の扉を開けると、部屋にいた弥生がパタパタと足音を立てながら近づいてくる。
「お帰りなさい。丁度ご飯できたとこですよ」
再び向けられた笑顔に、何かがブチッと切れる音がした。
その、幸せそうな顔が、
無性に俺を苛つかせる。
「……何故だ」
「は?」 「何故、そんな風に笑っていられる」 「え……?突然どうしたんですか、リヴァイさ、っ!」
ダァン、と鈍い音が響く。
出迎えた弥生の肩をガッと掴み、壁へ叩きつける形となった。
「何故!この世界のやつらはそんなにのうのうと生きていられるんだ!何故、俺達の世界とこうも違う!」 「……ッケホッ、」 「お前達は巨人の恐ろしさを知った事があるか!見えない恐怖に怯えた事があるか!家族を目の前で殺された事があるか!仲間を目の前で殺された事があるか!!碌に食事もできない、ひもじい思いをした事があるか!俺の生きている世界はそういう世界だ!人間なんてあっけなく死んでいく、絶対的に強大な力に立ち向かう事がどれだけ滑稽なことかわかるか!毎日何人もの仲間を失って、何故……何故!俺は今、こんな世界に居るんだ!!」
ピリッとした、静かな空気が流れる。
荒い息切れを起こしているのは自分だ。 感情が昂ぶりすぎてコントロールが効かない。
弥生が悪いわけじゃない。 そんな事は分かってる。
分かってるけど、止められないんだ。
どうすればいい、助けてくれ。
「………………助けて、……くれ……」
しばらくの沈黙が続いた後、弥生の手がゆっくりと俺の手に重ねられた。
「……とりあえず、落ち着いてくださいよ。何が切欠だったのかはわかりませんが、リヴァイさんは今、葛藤と戦っているんですよね?」 「葛藤と戦っている……?」 「己の中にある信条と、この世界とが余りにも違いすぎて」 「お前に何がわかる」 「わかりませんよ。わかりませんと言ったでしょう。でも、貴方は助けてくれと言った。だからひとまずは落ち着きましょうよ」
顔を上げることが出来ないまま、両腕の力を抜いた。 勝手に抜けた、と言ったほうが正しいだろうか。
「ったく、私そのうち本当に殺されるんじゃないかしら……」
弥生の呟きは、聞こえない振りをした。 否定が出来ないからだ。 さっき、もっと強く力を込めていたならば。 殺す事なんて、きっと簡単に出来た。
弥生を殺そうと思っているわけではない。 俺が俺自身の感情に殺されて、それを制御できなかっただけだ。
……本当に、これがあの調査兵団の兵長だというのか。
情けなくて、情けなさ過ぎて。
「リヴァイさん、聞き流してもいいからちょっと聞いてくださいね。私達の世界だって、争いごとが全くないわけじゃないんですよ」
強盗、誘拐、殺人。 毎日のようにテレビで報道されるニュースは、決して良いものばかりではなかった。 大半が悪いニュースで、川にアザラシが出没!なんてやってた時にはなんて平和なんだろうと思う事もあった。
確かに、私は現在平和にのほほんと暮らしている。 でも、私が今、こうやって幸せに過ごせるのはご先祖様達の頑張りがあったわけで。 繰り返されてきた歴史が紡いだ結果なわけで。
「この日本だって、昔は大きな戦ばっかりだったんですよ。信頼、裏切り、暗殺。そんなのが当たり前の世の中でした」
だからどうした、一緒にするな。 そう言われてしまえば返す言葉もないが、リヴァイは黙って私の話を聞いていた。
「もちろん餓えもありましたよ。偉い人たちは農民から徴収して自分達の懐だけ暖めて。下っ端の人間は、お上のために死んで当然だったんでしょうね。今じゃホントに考えられないですけど。……リヴァイさんの住む世界は、今は巨人との戦いの真っ只中なんですよね。それって何のために戦ってるんですか?自分の大義名分の為ですか?」 「……人類が生存を果たすためだ」 「なら、戦い続けた結果がこの世界だ、と思う事は出来ませんか?」 「…………?」
意味が分からない、という表情を見せたリヴァイ。 その目は虚ろだった。 じっと目を見つめながら、続きの言葉を投げかける。
「リヴァイさん曰く、ガキなんぞにこんな事言われたくないかもしれませんけど。巨人との戦いが終わったら、きっと明るい未来がまってるはずです。リヴァイさん達人類は負けませんよ、きっと。だって主人公が人類の味方なんだもの」
そうだ。 漫画の中で主人公が死ぬなんてことは滅多に有り得ない。 エレンが人類の味方である限り、巨人に負けることはないはずだ。 それは作者じゃないと知り得ないことであるから、胸を張って言えるわけじゃないけど。 それでも、私なりに考えた結果だった。
今となっては、昨日リヴァイが言っていた「戻りたいと言えば戻りたいが…………戻りたくねえと言えば戻りたくねえな」という言葉の意味がわかったような気がする。
リヴァイは、自分の世界とこの世界を比べすぎてしまっているんだ。 漫画の中ではクールで冷静な対応をする印象だったのに、さっきのリヴァイを見ているとなんだか別人のようにも思えた。 でも、どっちもリヴァイなんだよね。 向こうの世界では心の奥底に重圧を押し込んでいるのかもしれない。 人類最強なんて言われたら、そりゃあ弱音なんて滅多に吐けるもんじゃないよね。
「向こうの世界でどれだけ期待されてても。ここでは、強がらなくていいんです。弱音だってたくさん吐いていいんです。それを聞いている、知ってるのは私だけなんだから」
「夢なら夢だと思えばいいじゃないですか。向こうの世界に戻ったときに、思い出してくださいよ。巨人に人類が勝利したならば、こんな明るい未来が待ってるって。心に刻んで帰ってくださいよ。エレンやミカサは帰ってきたとき落ち込んだ顔をしていましたか?リヴァイさんの話を聞いた限りでは、楽しそうに思えましたよ」
「…………ったく、次から次へとペラペラよく口が回る」
再び顔を上げたリヴァイの目は、もう虚ろなんかじゃなかった。
「だって。事実だと思った事を述べてるだけですよ」 「その減らず口……まあ、悪くない」 「どういう意味ですか」 「そのままの意味だ。悪くないと言ったら悪くない」 「褒められてる、と捉えますよ」 「好きにしろ」
リヴァイはフン、と鼻を鳴らすと、朝食の用意がしてあったテーブルの前にドカリと座り込んだ。
「冷める」 「…………誰のせいで冷めると」
言いかけたが、リヴァイの顔が憑き物が落ちたかのようにスッキリして見えたので、そのまま言葉を飲み込んでしまった。
「肩、悪かったな」 「……いえ、痛かったけど平気です」 「もうしねえよ。今日入れてあと6日間、俺は夢を見ていることにする」 「つまり、この世界と向こうの世界の境界線を引いたって事ですか?」 「ああ、弥生のおかげで吹っ切れたらしい。礼を言う。改めて、世話になる」 「え、あ、はい」
真面目に言われたら軽口なんてとても叩けなくて。 この世界で少しでもいい夢を見て、それから帰って欲しいな、と。
そう思いながら、朝食を口にした。
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