勿忘草4







「…あぁ!!」


最後の最後で筆が潰れ、弁丸は悲痛な声を上げる。もう良い、今日は止めだと放り、半紙が散らばる畳へ大の字になった。

弁丸が武田の屋敷に来て、一月が経つ。
少し開けた戸の外には庭が広がり、やっと最近見慣れてきた。
澄み渡る青空に、鳥の影が見え、


「佐助…」


──のであるわけがないのに。
小息をつき、弁丸は身を起こす。


「呼んだ?」
「!?」

いきなり軒から影が落ち、弁丸はギョッと飛び退く。
目の前に現れたのは、幻でなく、一月振りに見る彼の姿だった。

「さっ、…さ!?……え!?」
「やだな、俺様の名前忘れちゃった?」
「さすけ!!何故!?うっ、わあ!」

慌てて駆け寄ろうとする彼だが、半紙に足をとられ見事にコケる。
…前に、佐助が華麗に抱えた。

「もう…慌て過ぎ。てか何なの、これ。全然変わってないじゃん」
「何故ここに!?」
「ちょちょ、落ち着いて」

ギューッと腕を掴む力を抜かせ、佐助は弁丸をなだめる。


「任務でこっち来たから、挨拶にね」
「そっ、そうだったのか!…そうか…」

まさかこういうことがあるとは、全く予想していなかったのだ。弁丸は納得しながらも、動悸が治まらない。
佐助は、「驚かせてごめん」と苦笑気味に詫び、

「聞いたよ?若、自分から頼んだんだってな。武田に行きたいって」

「──あ…」

たちまち、叱られた子犬のように小さくなる弁丸だが、佐助の目に怒りは見えない。隠していたのに…
その心情を易く汲み取った佐助は、『何で分かんなかったんだろ』と、知ってから幾度もした苦い思いを、再び彷彿させた。









『すまぬ……私のせいで』
『…?何がです?』

弁丸の兄は、ぎゅっと御守りを握ると、

『弁丸の前で、つい言ってしまったのだ…「行きとうない」と。弁丸は、「では、ゆずって下され」と…』

冗談だろうと思っていたら、翌日には父親からそう伝えられた。彼は、焦り申し入れたが、

『実を言えば、私もそうしたかったのだ。お前にはここが、向こうは弁丸の方が性に合うと…どこかで思っていてな』

周りの意見から長男をとしていたが、弁丸の熱意に、他の重鎮らも彼を見直したらしい。それで、とんとん拍子に話が進んだのだと。


『私は己が情けない、弟に気を遣わせて』

『…や、それ違いますよ。弁丸様は、ただ…』









「若って、ホント兄上様が好きなんだねぇ」
「あ、ぅ、いや…っ」

弁丸はもごもごと、

「それがしの望みなのだから、兄上がそのように気に病むことは…むろん、おしたいはしておるが」

「大丈夫、ちゃんとお伝えしといたよ」
「…言っておらぬのに?」
「話聞きゃ、すぐ分かったって。…それこそ、俺様に言ってくれりゃ良かったのに」

何で?と佐助は弁丸を窺い、「俺様、それだけがどうしても分かんなくてさ」と、答えを促す。


「それは…そうせねばと思ったゆえ。佐助いつも言うだろう、己で考えろと」

「で、一人で決めて、直談判しに行ったの?俺様にも言わず?」
「任務でおらんかったし」

ぼそぼそと答え、弁丸は佐助をおずと見上げる。佐助は、「怒ってないよ」と笑んで、

「すごいなぁと思ってさ」
「…えっ?」

「よくそんなこと考えて、一人でやれたね。…偉いし、強い。若は、きっと立派な武士になるよ」

「…ッ……」

だが、弁丸は佐助から目をそらした。
佐助が呼び掛けると、彼はどうしてか不穏な表情を向け、


「何故来たのだ…」

「え?だから、任務で」
「会いとうなかったのに」

「……」

佐助は止まり、そうなんだ、と呟く。

「何で…?俺様が口煩いから?もう顔なんか見たくない?清々してたとこに来られて、嫌だった?」
「…がう…ッ」

弁丸は声を震わし、

「お前は、帰るから…!…向こうに…これから…っ」


言い放つと、弁丸はたがが外れたように泣き始めた。うっうっと声を殺し、左右の袖で頬を交互に拭う。

「だから、言わなかったのに…さすけにいったら、行きとうないとおもいそうでっ……でも、ほんとうは、」


──本当は、一人は怖かった。
夢だったのだ、当然嬉しいのは嘘じゃない。でも、半分だ。あとの半分が足りない。
きっと自分が半人前だからなのだと、補うべく何事にも努めていた。けれど、

立派になって、今度はこちらから頼むつもりだった。自分の傍に、また。
それまでは会えぬだろうから、その日までの楽しみを糧にして、だからまさか、…なのに、また別れなければならないなんて、


「だがら、あいとうながった!なぜ来たのだばかもの、はようかえれ、もうにどと」

「…そう言わないでよ。任務、まだ終わってないんだから」
「っ、ならかくれて、見えぬところにいってくれっ…」
「そうしても良いけど、それじゃ意味ないし。若も見えない相手じゃ、組み手やり辛いでしょ」
「見え…っ?」

弁丸はぴたりと止まり、「…何のことだ?」と佐助を見返す。
あーあ、と佐助は懐から出した布で、弁丸の顔を拭く。呆れた声であるのに、その目は笑っていた。

「……」

初めて見る笑みに弁丸が見惚れていると、佐助はおもはゆそうに、


「俺様の新しい任務、武田から真田へのお達しでさ、…弁丸様の影──なんだよね。今んとこ、無期限で」


佐助は弁丸が理解するまで、その表情の移り変わりを興に、気長に待つことにした。

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