痛みと自由



 遠くから鐘の音が聞こえる。


 108まで続くその音を耳にしながら、忍は机に寄りかかり眠る男に手をのばした。


 蝋燭の火に照らされるなめらかな肌に触れる。

 そのまま指を滑らせて唇の感触を味わう。


 ゾクゾクとする、甘美な背徳。

 そのスリルで己の真意を鐘の音に覗き見られているような錯覚に陥る。


 その時。

 寝ていたはずの男が動いた。

 無駄なく俊敏な動きで胸元に潜めていた扇子を忍の首にあてて笑う。

「安心しろ。どんな時にも隙は見せぬ」

「上出来だ」

 去年よりも大人びたその様子に、忍は動揺を隠して微笑みを浮かべて言葉を続ける。


「明けましておめでとう、大将」

 忍の言葉に主はそっと頷き、過去を思い返して眉を潜めた。


「去年はよく生き長らえたものだ」

「自信を持っていい。武田が無事だったのはアンタの実力だ」

「佐助の誉め言葉、久方ぶりに聞いたな」

 ニッコリと笑うその様子は、戦場で数多の血を浴びる鬼の姿とはとても思えない。


「今年の干支は辰であったな」

 無邪気な笑みを浮かべたまま空を見上げて、彼は永遠の宿敵の顔を思い出す。

「あのお方はますますの勢力を得るのであろうな」


 途端に、顔の表情を失う忍。

「だが、今年は武田が天下を治める。来年の今頃、奥州は武田のものになっているだろう」


 決意を固めて月を見つめる主を、忍は何処か虚ろな瞳で見つめる。


 月明かりで光る主はとても神聖で美しい。


「俺が、伊達政宗を討つ。それが叶えば」

 そっと、主は真摯な眼差しで忍を見つめた。


「お前を解放しよう、佐助」

「……」


「俺は全ての人間が平等の世を築きたい。誰しも命の重みは同じだと、そう皆に説いて行きたいのだ」

 無表情な部下の様子にそっと睫毛を伏せて、男は唇を動かす。

「そうなれば、お前はもう忍ではない。もし生きているのなら上杉のくの一と所帯を持っても良いだろう」


「大将、俺は」

 ため息と共に唇を開く忍に、主は首を振る。

「俺は、武田の全ての人間を護りたい。佐助、お前は特に幸せになってもらいたいのだ」

 何も言えなくなる忍を、主は決意を込めた瞳で捉える。


「俺はお前の心を護ると言った。その約束まで、もう少し待ってくれ」

「バカ野郎。戦が終わる前から平和なことを考えるな。そんな甘い考えを持っていると、すぐに死ぬぞ」


 胸締め付ける言葉を厳しく返すと、主は困ったように笑った。


 いたたまれなくなり、忍は部屋を飛び出した。


 床の冷たさも忘れて気の急くままに歩く。

 静まりかえった縁側に鐘の音が響いた。

 やけに耳に侵食する音を聞き、この鐘の音は何度目だろうかと忍はぼんやりと思う。


 煩悩の数を打つその音がこんなに胸に響くのは何故だろう?

 何故こんなにも、主の言葉にだけ空洞の胸に心が生まれる?


 そっと、主を触れた指で己の唇をなぞる。

 これだけで、鐘の音がより大きく心臓に響いた。


 背徳と煩悩と悦楽の痛み。


 失ったはずの、引き裂くような感情。



「俺様の自由はアンタだよ、……幸村」


 絞り出すように呟いた言葉を聞いたのは、鐘の音だけだった。

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