共犯2
パシャリと、無音の世界に水の音が響く。
澄んだ水面に映るのは、いつもより顔色の悪い自分と何処までもついてくる満月。
どうしても寝付けずに、幸村は近くの湖まで訪れて顔を洗っていた。
ひんやりとした水が己の肌をピリリと刺激する。
その冷たさにますます目は冴えわたり、思考は眠りに落ちるようにぼんやりとしてしまう。
満月の光は己の知らない記憶を思い出させようとするようで、幸村はこの夜が嫌いだった。
闇の世界はその淡い光のせいで一層その黒を深くさせる。
深い深い黒に、影が潜んで笑っている。
「……だれだ」
ふと人の気配を感じて、幸村は背にしていた槍を握った。
闇に溶けた輪郭を睨みつける。
「俺様の気配に気づくなんて、やるねぇ」
そんな飄々とした声と共に、鴉を肩に乗せた長身の男が暗闇から浮かび上がった。
橙色の目立つ髪に派手な迷彩柄の着物を纏っている。
驚くほど整った顔には緑色のペイントが施されており、薄い唇には不敵に歪んでいた。
刀を指している所を見ると武士には違いないが、その風貌と佇まいは武士のそれとは程遠く、見る人にあべこべな印象を与えた。
急に現れた得体の知れない男に対して警戒を解かない幸村に「何もする気はないよ」と両手をあげる。
チリリと、服に身につけていた鈴が小さく鳴いた。
「貴殿は、一体?」
「盗み見ちゃう感じになってゴメンネ。久しぶりの〈ヒト〉だったから、つい見入っちゃんたんだ」
幸村の問いに答えずに、男はそう言ってじっと彼を見つめる。
その視線に居心地の悪さを感じて、幸村はそっと目をそらした。
男はそんな幸村に近づくと、持っていた手ぬぐいでその濡れた顔を拭った。
日にあたっているにも関わらず白くきめ細やかな肌の弾力が、布越しに伝わっていく。
「こうして見ると、やっぱり小さくて細いね。この身体で本当に多くの命を奪ったの?」
「見知らぬ人間に対し、失礼であるぞ」
降ってきた言葉に揶揄の色はなかったが、幸村は眉を釣り上げて男を見上げた。
その時。
幸村の表情は止まった。
「知ってるよ」
己を見下ろすその闇色の瞳に、強く囚われた。
「だって俺様、アンタに会うためにここで待っていたんだ。
ねぇ? ……真田の、旦那」
「き、でんは」
満月の中に、存在するはずのない記憶の輪郭が浮かび上がる。
暗闇に溶けた赤。
赤に溶けた、闇色の瞳。
己の心に戸惑う幸村を見て、男はそっと微笑んだ。
そして、長い指でその頬に触れようとする。
「そこまでです」
凛とした声と共に、2人の間に人影が入る。
「小山田殿……」
「これ以上幸村殿に近づけば、貴殿に刃を向けましょう」
呆然とする幸村を背にして、補佐役はじっと男を睨みつけた。
小山田の登場に、男は見る人間を凍りつかせるほどに冷たい表情を浮かべた。
「俺様、〈サル〉に興味はないんだ。どいてくんない?」
「どきませぬ。幸村殿を守るのも私の使命なれば」
「俺様に勝てると思っているの? アンタ、俺様の正体を知っているんだろ」
「勝敗の問題ではござらぬ」
「……興ざめした」
小山田の言葉に男はふぅとため息をつく。
そして、再び飄々とした表情を浮かべると幸村に笑いかけた。
「とんだ邪魔者が入っちゃったから、今日の所はここまでだ」
そして、男は幸村でさえも見失うほどの身のこなしで小山田を抜けて、幸村の頬に触れた。
「また、今度」
その言葉と共に、その派手な姿は消えた。
カァカァと鴉の鳴き声が夜空に響き渡り、ヒラヒラとその黒い羽が幸村の肩へと落ちる。
穢れたもののようにその羽を払った小山田に礼を言いながらも、幸村の思考は満月へと飛んでいた。
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