分別盛り(後編)2
カンヴァスの中心に描かれているのは、大きな鷲と小柄な美少年。
少年を抱きかかえて空に飛翔していく大鷲の後ろには雄大な山がそびえ、はるか下に見える地上では少年を追いかける犬の影が見える。
多くの画家が題材として描いた、ギリシャ神話に登場するガニュメデスのワンシーンだった。
大神ゼウスが類稀な美貌を持った羊飼いの少年ガニュメデスを愛し、大鷲に化けてオリンポスへと攫っていく場面。
神である大鷲は精悍で雄大である一方で、ガニュメデスはこれから己の身に起こる不安と神の愛撫により生まれる恍惚が入り混じった複雑な表情を浮かべていた。
その表情を己の手で描くことが、途方もなく恐ろしく感じられて。
「……」
ガニュメデスを途中まで描いたまま、幸村は絵筆を置いた。
「描け、ぬ」
震える右手を左手で抑えつけて、彼はポツリと呟いた。
「俺は……、自分をさらけ出すことができない」
瞼を閉じると彼の姿が浮かんで離れない。
依存と快楽と自己嫌悪にさいなまれ続けた。
胸が苦しくて苦しくて、逃れるように絵を描いても満たされはしなくて。
必死に題材を捜して行きついたのがガニュメデスだった。
神であるが男に愛されて一方的に誘拐された、ただの少年。
オリンポスを支配し妻や子を多く持つゼウスにとって、少年愛はただの嗜み程度であったのだろう。
しかし、何も知らずに神界へと連れられたガニュメデスにとってはどうだったのだろうか。
見知らぬ土地で頼れるのはゼウスだけ。
神々に酒を注ぐ仕事を与えられながら、故郷を恋しんだのではないだろうか。
そして、戻ったとしても変わり果てた自分が再び昔の自分に戻れないのではないのではと不安に思っていたのではないだろうか。
今の、己のように。
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