飛び越えられたボーダーライン4
「少し歩きましょう」
「Ah、あぁ…」
小十郎はランタン型のライトを手にし、政宗を下の川辺へと促した。
まだ、陽は沈みきってはいなかったのだが、
「………」
「何年振り…でしょうな」
小十郎は政宗に目をやり、柔らかに微笑む。
──二人の間には、繋がれた手。
政宗は信じられない心地で、引かれるまま彼の後をついていく。
手のひらと同様に顔の熱も上がり、『お前、頭でも打ったんじゃねーか!?』という威勢の良い叫びは、心の内でしか響かない。
川が眼前に迫ったところで手を離され、政宗の動揺はややマシになる。
太陽は山間に隠れたが、空は青の濃度が増しただけだった。
「ちょうど一年前の、この日でしたな」
「──お前…」
(覚えてやがったのか……)
政宗が彼に想いを告げたのは、去年のこの季節。
小十郎は硬直していたが、自分も同じ気持ちだとはっきり応えてくれた。…あれは夢なんかじゃない。先ほどの、手の温もりも。
「あのとき、ご自分が何と言われたか……覚えておられますか?」
「…たりめーだろ」
では、と小十郎は続けると、
「それを、取り消して頂きたくて。本当は、もっと早くにお伝えしたかったのですが」
「な……ッ」
政宗は、バッと小十郎に向かい、
「んでだよッ!何で今さら──ふざけんなっ、意味分かんねぇ!じゃあ何だって、こんな…」
(俺はずっと、今の今まで…!)
「ずっと……我慢してたってのに、そりゃねぇだっ、…ろ……」
怒鳴ろうとした勢いは消え失せ、政宗の頭は再び固まる。
……小十郎の胸に顔を付けられ、頭を優しく撫でられていた。
理解不能な状況の中、彼を見上げると、
「すみません、言葉が足りなかった」
小十郎は申し訳なさそうに、だが眉を下げ、
「そうではなく、その後に仰られた…やはり、覚えておられぬようですな」
「What…?」
「あの日、政宗様は──」
『Ahー…、アレだ。だからっつって、変に態度変えんなよ?周りに怪しまれりゃ色々面倒だし、何かとあれだろ……OK?』
「──と。それで、」
「………」
(…そういや……)
そんなことも言ったような。
確かあれは、緊張の糸が切れた途端、照れの類いが急増して、
「あ、あれはな、小十」
「教師の立場を考えて下さって…とは、よく承知しております。俺のために──昔からあなたは、そういうものに限っては聞き分けが良い。それは、とても尊いことですが、」
小十郎は撫でる手を止め、政宗と顔を見合わせると、
「年下のあなたに気を遣わせ、心底情けない…しかも、それに気付けなかった。思えば、あの言葉を意識するあまり、頑なな態度をとっていた気がします。…抑制もしていたので、あまり近付かないようにと…」
自責と苦悶に顔を歪め、深々と溜め息をついた。
「…………」
政宗は、そんな彼を驚きの眼で見つめると、
(……抑性?)
つい、そんなバカなことを浮かべてしまったのだが、…それもこれも、彼の言葉を理解していくと同時に、頭の中の雲が取り払われていったせいである。
顔もほころんでいき、政宗はようやく今の状況に、胸を躍らせ始めた。
「じゃ、お前も…」
それに、小十郎はしっかりと頷き、
「あなたと同じように……いや、きっとそれ以上だ。俺の方が、ずっと」
──我慢しておりました、と苦笑する。
(…何だよ)
政宗は、込み上がる喜びが口元に出るのを隠しながら、
「早く言えよな、そういうことはよ」
「仰る通りで…」
「…ま、俺が言ったせいでもあるし、しかも忘れちまってたしな」
政宗も苦笑いすると、自然に小十郎の腕が解かれ、二人はお互いから少し離れた。
空の群青は夜の色に近付き、明るい星と白い月が昇っている。
(しかし、わざわざこんなとこまで来て…)
二人きりになれはするが、もう少し気の利いた場所もあっただろうに。ベタだが、同じ山でも夜景が見える隠れ名所だとか、家が贔屓にしている会員制のオーベルジュとか──あそこなら、個室も取れてゆっくり食べながら、
(……ん?)
そんなことを考えていると、政宗の目にあるものが留まり、
「こっ、小十郎!あれ見ろ、あれ!」
「はい、いつの間にか…」
「Ahっ?気付いてたのかよ!…うわ……」
(すげぇ…!)
川辺に集まり漂う、無数の小さな黄色い光。
そこだけを見れば、天上の星空にも負けていない。ふわりふわりと移る度に光の線が描かれ、儚く消えていく。
「すげーな…俺、蛍なんか初めて見たぜ。しかもよ、こんなに。つか、いるんだな…」
小十郎は静かに笑うと、
「幼い頃に、一度見られておりますよ。真田たちと旅行に行った際に」
「そうだったか?」
「ええ。猿飛が上手く捕まえて真田を喜ばすので、悔しがって…」
思い浮かべるように目を細め、
「と思いきや、初めて捕まえた一匹を俺に下さいましてな。…嬉しかったので、よく覚えています」
「……へぇ…」
と言うので精一杯の、政宗である。
…小十郎は、またあの心臓に悪い表情と笑みを浮かべていた。
「Ahー…もしかして、それでここに来たってか?」
「知る人ぞ知る名所だそうですよ。…すぐに知られそうなので、先に白状しておきますが、」
「?」
政宗が目をやると、小十郎は何かを恥じるような表情で、
「実は……」
『珍しいな、お前が一人で。何か質問か?』
『あ、いえ……あの、図書室のパソコンが一杯で』
『調べもんか。何だ?』
『これなのですが…』
幸村の差し出したメモを検索すると、
『近くのキャンプ場しか出てこねぇな…多分、この辺りだと思うんだが』
と、プリントアウトした地図を見せ、赤ペンでマークして示した。
『ここがどうかしたのか?』
『あ、いや、今度の学園新聞に載せる記事を探しておりまして、そこが隠れ名所なのだと聞いたので』
『名所?』
『き、綺麗な川があるらしく』
『そうなのか。…少し遠いのがやっかいだがな』
『車で行けば、そんなには…』
『まぁ、そうだな』
『………』
幸村の沈黙に、どうした?と窺うと、
『政宗殿と…』
『ああ、そういうことか。何今さら遠慮してやがんだ』
小十郎は苦笑し、『出してやるよ、車。夏期休中なら俺も少しは休めるし、』
『い、いえ!某は行きませぬ!』
『…あ?』
小十郎はポカンとするが、幸村は何故か赤い顔で、
『えやっ、その…っ、そ、そこは、大人数で行くようなあれではない、らしくて』
『大人数って、お前』
『さ、三人以上は駄目なのです!』
『はぁ?』
『…っと、つまり……』
首が傾く小十郎に、幸村は必死で思案を巡らせたらしいが、結局は上手くいかなかったのか、
『政宗殿には、決して言わないで下され…』
と肩を落とし、トボトボと職員室を出ていった。
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