安息に涙す2







妙な夢を見た。


歩いているのだが、進む足が見えない。手も、身体も。暑さや寒さにも、鈍くなっている気がする。

もしや、自分は死んでしまったのだろうか?

しかし、そんな記憶はないし、感覚もはっきりしている。…そもそも、夢でもないような。


(幽体離脱ってヤツかな…?)


もっと、ふわふわ飛ぶようなものだと思っていたのだが。


見慣れた夜の街。
建物に付いた時計を確認すると、午前零時を過ぎた頃だった。

佐助は、迷うことなくそこへ足を運ぶ。

…幸村の住む、賃貸マンション。
オートロック式なので、ロビーでぼんやり佇むしかない。


(どうせなら、壁とかすり抜けられろよ…)


すると、運良くマンションの住人と思われる青年が、外から入って来た。

しめた、と開かれたドアの中へと入り込む。
彼は、こちらを見ようともしない。

幸村の部屋までは上がったことはないが、番号は知っている。
偶然にも、彼は同じ階に住んでいるようだ。


(あれ…)


青年が立った先は、聞いていた部屋番号の前。…佐助の胸に、影が落ちる。

しばらくして、幸村が顔を出し、


「よ、起きてた?」
「…起こされたのでござる」

トロンとした目で、彼を見上げた。

佐助は二人の傍に寄り、様子を窺う。
青年がドアを大きく開けたので、その隙にサッと身を滑り込ませる。


「部屋を間違えておりまするぞ…」
「まぁまぁ、──はい、コレ。約束してたヤツ。早く見て欲しくてさ」

「…おお!ありがとうございまする」
「ごめんな、起こして。じゃ、おやすみ」

青年はさっさと出て行く。

「あ──」

幸村が慌てて追いかけたので、ドアを細く開けて見ると、青年は少し離れた先の部屋から手を振っていた。

恐らく、同学年の友人だろう。


すぐに幸村は戻り、玄関の鍵をかける。
これが現実だとしたら、帰りはどうするか。

冷静な思考はそこで終わりを告げ、佐助の脳は、完全にこの空間一色に支配された。

視覚、聴覚、嗅覚、全てをフルに働かせ取り込むつもりが、…逆に囚われ、身じろぎすら難くなる。


寝室で、横になる幸村。

サイドテーブルのライトのみを点け、先ほどの彼から渡された物を取り出す。
大きめの本のようであるが、

「なぁ──!?」

開いてすぐに、床へ投げた。

ページが開いた状態で落ちていたので覗いてみると、即合点がいく。


「…は、破廉恥な…!」

どうであれ、本を粗雑に扱ったことは悔いたらしく、恐る恐る拾う彼。

少し目に入ってしまったのか、赤面に拍車をかけ、再び布団に潜る。
ブツブツ文句を言った後、ライトを消した。


(…相変わらず、初心なんだなぁ)


微笑ましい気持ちで、佐助は一部始終を見送る。

寝顔だけ見てから帰ることに決め、静かにベッドの傍に腰を下ろした。
再会してからは、まだ拝んでいない。きっと、昔と変わらないままなのだろうが…


佐助は、夜目が利く。
暗闇の中でも、彼の表情がよく見える。

先ほどの衝撃のせいか、未だに眉間に浅い皺が寄せられたまま。
眠れないようで、小さな溜め息が洩れた。

…佐助の胸の鼓動が、内で暴れ狂う。

広がる静寂の中、在るのは二人の呼吸のみ。だが、それを感じているのは己だけ。


(…ッ、…やば…)


かつてないほどの興奮に襲われ、佐助は全身を硬くした。
背中がゾクゾクするのは冷えた汗のせいに思えるのに、熱は集まる一方。

荒く速くなる呼吸を抑え飲めば、一層中で音が鳴り響く。
甘露を欲しているのは、躰か脳か。
どちらも麻痺しているくせに、ゆらりと指先だけが動いた。

少し伸ばせば、その頬に届く。…唇にも。


──だが、急に現実へ引き戻される。

幸村が布団をはだけ、暑そうに唸ったのだ。
まだ起きていたのかと内心焦るが、彼の辛そうな表情に、再び胸が詰まる。


(ぅ、ぁ…)


もしやという予想が当たり、肌がゾワリと粟立った。

…妄想に幾度も浮かべた、その情景。
決して他人に晒したことのないだろう、その姿。一人であるのに、恥ずかしそうに閉じられた瞼…


(…見ちゃ駄目だ。出なきゃ…)


それは、寝顔を覗き見することが正当だと思えるほどの、最低な行為。

緩やかに動いたその手から視線を外し、ドアへと向ける。…大丈夫、彼は目を閉じている。静かに開閉すれば、気付かれずに──


「…、…ッ…ぁ」

震え乱れる吐息は、ごくわずかなものであるのに、優れた聴覚が細部まで拾う。

鼓膜に刻まれ、脳に伝わり、全身へと染み広がっていく。


…立ち上がることすらできない。

意思とは裏腹に、熱を帯びた箇所が苦痛を訴える。重罪の苛虐として、根から引き千切ってしまいたかった。
しかし、頭の端で歓びも生まれる。…彼も、同じ人間であったことに。

かと言って、蔑む気持ちは一切ない。
己と違い、こんなにも綺麗であるのは何故なのか。
不思議に思い、納得もしていた。

そこには、余計な心が一つも付いていないからなのだろう。…自分とは違って。

その対象になれたあの本を、羨望と嫉妬の眼差しで見つめる。


………………


「…っ…ン、──ッ」

大きく息を飲む音がし、荒い呼吸が繰り返された。

…どうやら、彼は最中に息を止めてしまう癖があるらしい。恐らく、悦の度に喘ぐのを恥だと考えているのだろう。

果てる刹那と直後に訪れる虚ろは、自身もよく知り得るもの。
よって、その無防備さも理解できるのだが。


──絶対に、見せたくない。


彼の使った皿を洗うのを惜しむとき以上の衝動が湧き、出してしまいそうな両腕を必死に抑えた。


落ち着きを取り戻した後、幸村がベッドから起き上がる。察するに、浴室へ向かう様子。

チラッと見えた顔は未だに恥じらっており、しかも、自身への苦笑も混ざっていた。
またもや惹き付けられ、硬直してしまう佐助だったが…

チャンスは逃さず、シャワーの音を合図に寝室を出る。


数分後、当人は知らずとも、幸村は真実の静寂によって迎えられたのだった。

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