帰郷4


「…部屋の記憶は、きちんとあるのに」

使用人が呟き、幸村の意識を向かわせた。


「あの…?」
「分かりませんか?」

哀しそうな目で覗き込む顔に、幸村の胸が痛む。


(やはり、あなたは『昔』…?)


その件に違いないと、深く詫びる気持ちで、


「すみませぬ…某はまだ」
「思い出して下さい…」

「──殿…」

彼の名を呼ぶと、使用人は首を振り、


「違う…。私の、本当の名は…」



(…え…)


その名字を耳にし、幸村は目を見開く。

長い間、封印してきたそれは、



「あなたは…」
「──その名を、忘れていたわけではないんですね」

「………」

幸村は、愕然と彼を見上げた。


「…そう。仕方ないですよね、あなたのご両親を死に到らしめた者の名など。…彼らに息子がいたことも。忘れたくて当然でしょう…」

「ぁ…」

両親は、近所の夫婦が運転する車の事故で亡くなった。

幸村も同乗していたが、彼らの他にもいた人物は、どうしてか記憶から抜け落ちたように…


「『おにいちゃん』…」


幸村は幼い頃から現在のような言葉使いだが、唯一例外だった彼。


(何故、今まで忘れて…)


…再会しても分からず。

懐かしい気は、していたというのに。


「すみませぬ、あのっ…」

事故は、彼のせいでも何でもないのに。


「…良いんですよ。きっと思い出してくれると、信じていました。…それに、私も以前の自分には、別れを告げましたから」

「え?」

「もう、彼はいません。…あなたと、二人きりです」



『二人きり──』


その言葉に、幸村の身が強張る。



「あなたも、見て下さいましたよね。『彼』は動かなくなっていたでしょう?…あの後、『私』は、本当に清々しい目覚めを得られました。この身体は、『私』だけの物になったのです、ようやく」

「な…に、を…?」

「『美紅』の名は、とても気に入っています。正に、あなたを示す言葉…。本当に、あなたはその色が似合う」

と、彼──『美紅』は、幸村の首筋に軽く唇で触れる。



(彼が、『美紅殿』…)


幸村の頭は、再び混乱をきたす。

では、先ほどのは夢ではなく、


「小さい頃、私の母親がふざけて、あなたにこんな服を着せたことがありましてね。…本当に可愛らしくて」

彼は、幸せそうに笑い、

「そのとき、『私』は『生まれた』んです。──ずっと、眠っていたんですが、あの日…」


幸村も、おぼろげだが、彼が言っていることを理解できてきた。

『おにいちゃん』は、とても生真面目な少年だった。…今の彼と変わらぬ。


(きっと、『間違っている』と、自分を責められて…)


そして、そんな自分を封印していたのだろう。…彼を忘れていた幸村と同様に。


「あの事故さえなければ、彼らの立場にいたのは、私だったはずなのに。哀しくてたまりませんでした」

「…では、これから…」


(大丈夫、きっと何とか…)


心の病だと知れば、警察の対応も緩和されるのでは。
と、願うように彼を見つめ返す。


「某が一緒に、…?」

彼に寄ろうと腰を上げようとすると、何故か手さえ動かせない。

…そういえば、先ほど彼に首筋を触れられ、何も感じなかった。


「声は、どうしても聞きたかったので。身体だけそうなる薬を」
「──な…っ、…」

「あなたが行くのを見届けてから、私もすぐに追いかけますから。待っていて下さいね」

と、幸村の前に台を持ってくる。

何やら仰々しい造りで、箱のような物が付いていた。


「この中から、これが出るような仕掛けになっているんです」

「っ!」

彼が見せたのは、キラリと光る刃物。

それを幸村のすぐ目の前…左胸に合わせ、置く。


「何…、…まさ、か」

身体がびくともしないことに、恐怖が沸き上がる。…声が、上手く出せない。


「ヒントを与えましたので。…もうすぐ、着く頃だと思いますよ。誰が、あのドアを開けるんでしょうね。きっと、皆さんお揃いで──ああ、全員で押し破るのかも知れませんね、仲が良いから」

「は…、っ…?」

息苦しさに襲われ、幸村は喘ぐように聞き返した。

彼は、すぅっと綺麗に微笑み、


「あのドアが開くと同時に、これがここへ。…私は不器用なんですが、お金だけは持ってますから。あのシャンデリアや手錠の仕掛けも、腕利きの方に造ってもらったんですよ」

胸に置かれた指からは何の熱も伝わらないのに、頭の中だけが鮮明になっていく。


「…なぜ、わざわざ…」
「そんなこと、できるはずがないでしょう?それに、やっぱり妬ましくてしょうがないんですよ。あなたが、自分のせいで──彼ら、どう思うんでしょう」

「っ、違う…!」

楯突こうにも、どうにもできない。

焦りだけが、蔓延する。



「──て、下され…」
「え?」

幸村は、震える声で、


「やめて下され…お願い致す…」
「………」

「何でもしまする、やめて下され、こんな…」


彼は、またあの哀しい目で笑い、

「自分がいなくなった後まで、彼らの心配を?…あなたらしいですが」


「──違いまする」

幸村は目に涙を溜め、


「死にとうない……やめて、下され…」


「………」

彼の表情は強張り、険しいものへと変貌していく。


「…失望しましたよ。あなたが、そんなことを請うだなんて。…きっと、最期まで燃える瞳を見せてくれると思っていたのに」


「………」

深い闇に突き落とされるようだった。…が、


「某は、そのように出来た人間では、ありませぬ…」

と、歯を食いしばる。



(──死にたくない)


嫌だ。…いやだ



脳裏に浮かぶ、様々な場面。

死ぬ間際に訪れるというあれであれば困る。それを散らすように目をつむるが、



怒濤に降り注ぐ笑顔


…胸の奥の何かが、氾濫する


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