男の車の中は、不思議と落ち着いた。時間も時間だったからか、私の意識は飛んでいたらしい。まぶしい光が瞼を自然と開けさせた。
「……」
冷たい空気が体を包んで、はっきりとしてきた脳内がやっと運転席のドアが開いているのを認識した。かすかに鼻を突くのはたばこの匂い。冷たい空気は朝の緑の匂いだった。
「……起きたか」
そんな私に気づいて、外でたばこを吸っていた男がこちらを向いた。見上げた男の顔は、昨夜のそれよりも数倍も美しい。ひどく整った顔立ちであった。
どうやらサービスエリアで一休みしていたようだ。男の顔からして、彼もひと眠りしたのだろう。
「ほれ」
「あ、わ」
寝ぼけ眼の私に、男は紙パックを投げた。よく見る緑茶のパッケージ。一度小さく礼を言う。この手の飲み物を、好んで口にすることはないが、付属のストローを刺して口をつけた。
「朝飯は高速下りてから、な」
「……うん」
男が車に乗り込んで扉を閉めた。エンジンを掛けて、すぐに車は走り出す。デジタル時計は午前6時43分を知らせていた。
「名前」
「なんじゃ?」
「名前、は?」
私はこの男のことは何も知らない。この目立つ風貌と、奇妙な方言、そしてこの男が空き巣をしようとしていたこと以外、何も知らなかった。
「……マサ」
「マサ?」
「そう。本名は教えられん」
「ふーん」
マサ、ね。それが本名の一部なのか、それともまったく別のレプリカなのか、私にはわからないし、知らなくていい。それがなんであれ、あった方が便利なことに変わりはなかった。
「お前さんは」
「……なまえ」
「なまえ」
「そう」
お相子である。ただ私は偽物の名前など考える深い理由もなかったので本名だが。そんなのは言わなければわからないのだ。
「お前さん、まだ高校生じゃろ」
「なんで?」
「空き巣に入る家のことくらい、ちょっとは調べておくもんじゃ」
「……そうだよ、私高校生」
「いいんか、受験生がこんなことして」
「別に。大学もう決まってるし」
そう、私はもう進学先の学校が決まっている。推薦というやつだ。面接ももう終わっている。父の名を知っている面接官たちからの扱いは、気持ちの悪いものだった。君はもう受かって当然、そんな声が癪であったし、その時間中も両親のことをしつこく聞いてくる彼らに何度も吐きそうになった。
「どこ?」
「A大」
「ほお、頭ええんじゃな」
頭が悪いことはなかった。幼稚園から品のいいところに入れられ、優秀な教育を受けてきた私は成績はいい方だ。ただ勉強する気はない。興味がわかなかった。
しばらくすると車は高速を降り、静かな道を走った。適当に見つけたコンビニに車はとめられ、マサがドアを開けた。
「さ、下りるぜよ」
手招きしたマサに誘われるように、車を降りる。冷たい空気が私の頬を掠めた。ここはどこだろう、空気が、ひどく気持ちがよい。
マサに続くようにコンビニへ入ると、陳列された商品が私を待っていた。朝だからだろうか、まだ客のいない店内。弁当やらパンやらの品ぞろえがやたらよかった。
「どれでも、好きなの選びんしゃい」
そんなマサの声に、ふらりと足が向いたのはパンのコーナーだった。たくさんの種類がある中で、真っ先に視界に入ったメロンパンを手に取った。安上がりだし、おいしい。
「これにする」
「ん」
マサは私の手からひょいとメロンパンを取ると、無造作に右手に持ったかごに入れた。それと、パックのレモンティーを一つ、マサに手渡した。
朝食を買い終えると、車はすぐにコンビニを出発する。少しのたばこの匂いが、私のところまでやってくる。
「うまいか」
「うん」
助手席でメロンパンをほおばる私に、マサがつぶやくように言った。なんだか満足そうに口元を上げたこの男に、再び人間らしいところを見た気がした。
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