Destination-05
走っても走ってもおさまらない。
本当なら自室のベッドで泣きたい気分だが、女子寮に行くには談話室を抜けなければならない。
でも談話室にはさっきの先輩がいると聞いた。
とても通れない。
開け放しの窓から吹き込む風で廊下の松明は消えていた。
まだ昼なので最初からついていたかどうかも分からない。
気味が悪いほどに薄暗い廊下を進む。
ひとりになれる場所を探して真っ暗な教室に駆け込んだ。
カーテンが閉められているようだ。
誰にも見られていないことを意識すると急に涙が出てきた。
入り口から一番遠い席に座る。
不定期にぽたぽたと雫が落ちる音と、なまえの小さな泣き声だけが辺りの静けさを破っていた。
いきなりあんなことをするなんてどうかしてる・・・
半年前に初めて少し話をした時も何を考えているのか全くわからなかった。
なまえは普段から人付き合いがあまり得意ではない。
一番の親友のエミリア以外の人間とはそこまで深く付き合わないようにしていた。
だからシリウスに対してもどう接していいのか解らないでいる。
そんな気も知らないでシリウスは頻繁に詰め寄って来て、自分をからかっている様に思えた。
さっきの図書室の事だって・・・
瞳から落ちた涙が握り締めた手の甲にぽたりと落ちた。
そのまま斜めに流れ落ちて、木の机の上に染み込んでいく。
暗闇にだいぶ目が慣れてきたので、なまえはカーテンを少し捲って外の雨の様子を確かめてみる。
すると、窓の外に見える光景はなまえがいつも観ているものだった。
真っ暗な状態でもほとんど物にぶつからずにここまでまっすぐ歩いてこれたのも、体が覚えていたからなのだろう。
ここは魔法史の教室だ。
そして驚いた事に、なまえはいつも自分が座る席を選んでいた。
外の雨は強くもなく弱くもなく。
一定の雨音は何ともいえない空間を作り出す。
そういえば図書室に羽ペンとインクを忘れてきた。
羽ペンとインク・・・
思考に亀裂が入り、ある事を思い出した。
カーテンをもっと捲り上げると、教室が少し奥の方まで弱い光で照らされる。
なまえは机の表面に意識を集中した。
そこには今朝なまえが書いたルーン文字の文章がまだ残っている。
そしてその下に新しく何か書き添えられている様だ。
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月の無い夜に雷鳴が轟く
世界樹の根元で無限の蛇が起き上がり
荒れ狂う海では水魔さえも沈む
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そして少し離れた下の方に“ケーナズ”のルーンが添えられていた。
なまえは首をかしげる。
まさかこんな形で返事が返ってくるとは思いもしなかった。
最後のルーン文字はアルファベットとは関係なさそうだ。
この文字“一つ”の意味が重要なのだろう。
“ケーナズ”は火を表すが、智恵、理解、洞察力という意味もある。
上の文字の羅列について考慮しろという意図を感じた。
一番最初にこの文を読んで頭に浮んだのは、小さい頃に読んだ絵本だ。
世界樹と聞いて、なまえはユグドラシルの話を思い出した。
世界の中心にあるとされた巨大な樹で、その周りに住む神様と妖精たちの話。
その巨大樹を中心に全てが廻り巡る。
しかし彼らの時間は永遠ではない。
その樹の根元にはユルムンガンドという大蛇が、尾を咥えて眠りについているからだ。
大蛇が目覚めた時から全てが壊れ始めてしまう。
なまえは幾度も文を読み返した。
しばらくして、こんな状況でも必死に頭を使っている自分が可笑しくなる。
顔を上げたと同時に椅子からも立ち上がり、教室よりはまだ明るい廊下に足を踏み出した。
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「ねぇ、何で彼女なのさ?」
いつものソファに腰を掛け、リーマスの借りてきた本を開いていた。
文字は読まず、挿絵だけを見てパラパラと捲る。
質問の主は向かいのソファであくび交じりの背伸びをしていた。
金色の眼鏡が少し鼻から下がっている。
「彼女って?」
「なまえだよ。君の好みとは思えないから」
脚を組んであごを支えた肘はひざの上に固定している。
「俺に言わせたら、リリーのどこが良いかの方が解らない」
「誤魔化すなよ、真面目に訊いてるんだ」
ジェームズはシリウスの本をスッと取り上げた。
「遊び半分ならやめろよ」
「遊び半分かどうかなんて、お前にはわからないだろ」
口を動かしながら奪われた本をすぐに取り返した。
「わからないよ。でもお前のやり方はなまえにとってからかいと大差ないんじゃないのか?」
ジェームズは間違った事は何一つ言っていない。
彼の目を見れないシリウスは、エンジ色の絨毯に視線を逸らした。
「なまえにあまり良く思われてないことには気付いてたよ」
両目を瞑ってため息を吐くと本をテーブルの上に投げる。
「確かになまえは静かな子だけど、君に対してはさらに一線引いてるよね」
自分の心の中では常に思っていたことだが、他人に言われると不思議にグサっとくるものだ。
「でも何だか気になるんだよ、良く解らないけど・・・」
左手で額の髪をかきあげる。
「酷いことしちゃったしね・・・多分もう嫌われてるんじゃない?」
「・・・このままで終わらせたりしないさ」
シリウスの返事を聞いて、さっきまで真剣に眉を潜めていたジェームズはとたんに笑顔になった。
「そうだね・・・なまえは今まで君が相手にしてきたどの女の子よりもずっと優しいと思うよ。だからその分簡単に人を見限ったりはしないよ」
「まだ望みはあるかもしれないって事だね」
今度は見当違いの場所から別の声が聞こえた。
ソファの背もたれに急に重みを感じる。
「さっきから甘ったるい匂いがしてると思ったんだよ。いたのかお前も・・・」
砂糖羽ペンを口に入れたリーマスが、ソファの背もたれに肘を突きながら幸せそうに微笑み返した。
「なんなら僕が仲を取り持っても良いけど?」
「いや、それは結構だ。お前は何もするな」
「・・・?なんでさ」
ソファに立てた肘を倒して、リーマスは顔だけこちらに向けているシリウスを直視する。
「シリウスー。リーマスに嫉妬かい?」
ジェームズがニヤリとした視線を飛ばしてきた。
「ばっ、違う!」
「え、そうなの?必死だね」
リーマスも楽しそうに笑い出す。
お互いの顔を見合わせてニヤニヤ笑う親友二人。
--- なんだよコイツら。なまえがリーマスを好きなこと知ってたのか?
「大丈夫だよ、今のなまえは僕の事なんて頭に無いから。きっと君の事ばかり考えてるんじゃない?」
リーマスは口から取り出した飴でシリウスをびしっと指差した。
「さっきなまえを好きな理由が自分でも良く解らないって、シリウスは言ってたけど・・・本当はどうして惹かれてるのかわかってるんでしょ?」
「・・・・・・」
シリウスはリーマスから顔をそらして正面を向いた。
だが正面にはジェームズが座っている。
「え、そうだったの?僕だまされちゃった」
組んでいた脚を解いて身を乗り出すジェームズ。
「口に出すのが恥ずかしいだけだよね?」
フフフと笑って飴をぺろっと舐める。
「だってシリウスが誰かに誘われて付き合うことはあっても、自分から行動を起こすのなんて初めてじゃない」
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「なまえーそろそろ授業に行かなきゃ遅れるよ」
数日降り続けた雨は嘘の様に空が眩しい。
きっとまた明日からでも気温が下がって、冷たい雨が降るんだろう。
そう思うと今日のような天気は本当に重宝だ。
図書室の件はなまえが心配していたほど事が大きくならなかった。
最初は例の先輩達が要らぬ噂を流したりするのではないかと心配していたのだ。
代わりにシリウスの悪名が広がった気がする。
なまえはあくまで被害者にしか見られないのだろう。
その事実をうってつけるかのように、シリウスはなまえの前に現れなくなった。
「待って、今行くから」
でもそれが普通なのだ。
そのほうが落ち着いて生活できる。
廊下をしばらく歩いていると、突然エミリアが思い出したかのように立ち止まった。
直ぐ後ろを歩いていたなまえは思わずエミリアの後頭部に鼻をぶつけそうになった。
「わぁっもう、何なのエミリア!」
乱れた前髪を直しながらなまえは憤怒する。
「ごめんごめん、ちょっと思い出したの」
そう言って、エミリアはなまえの半分ほどの重さしかないようなカバンの中身をあさり始めた。
「これなんだけど・・・」
エミリアがカバンから取り出したのは、見覚えのある藍色の装丁の本。
条件反射で伸ばそうとした手を慌ててひっこめる。
「それ・・・もしかして」
“薬草・毒草全書”という金色の文字がきらりと光る。
「うん。シリウス先輩から・・・」
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