小さな婚約-2
時は僕らを待ってはくれない。
容赦なく目の前を駆け抜けてゆく。
展望台へ行く約束をした翌日。
僕の両親は愛がプレゼントした温泉旅行に出掛け、家を空けていた。
愛も珍しくテニススクールが休みで、家でゲーム三昧だった。
この機会に、華代と英二と手塚の三人が不二宅に遊びに来ていた。
華代の首元にはあのネックレスが光っている。
兄の桃が乾杯の音頭を口にした。
「それじゃあ華代と不二先輩のカップル成立を祝ってー、乾杯!」
何をしているかというと、リビングでちゃんこ鍋パーティーだ。
ちなみに、乾杯はお冷だ。
季節は蒸し暑い真夏だっていうのに、桃と英二の提案で鍋になった。
メンバーは桃城兄妹、不二兄妹、手塚、そして英二の六人だ。
三人が並んでダイニングテーブルで向かい合って座っている。
華代を挟んで桃と僕が座っていて、その前では手塚を挟んで愛と英二が座っていた。
桃は手慣れた様子で華代の取り分け皿に料理を盛っていた。
テニスの大会の話や手塚の冷やかしなど、色々な話で盛り上がる。
更に冷やかされたのが華代と僕だった。
盛り上がりを見せる途中、桃がオレンジジュースの瓶を開けた。
新しいグラスに注ぎ、まずは僕に渡した。
「ささっ、飲んで下さいよー!」
「ありがとう。」
まるでお酒を渡しているみたいに言う桃に、愛と英二が笑った。
どんどんオレンジジュースを配り、全員に回った。
愛がグラスを手に取り、手塚も同じように手に取ったのを見て言った。
「国光、オレンジジュース乾杯。」
「ああ、乾杯。」
恋人同士の二人のグラスが触れ合う優しい音がした。
愛は手塚を下の名前で呼び捨てにしている。
あの手塚の口から乾杯≠ネんていう単語が出るのは違和感があった。
そんな単語でさえ手塚の口から出してしまうのが、愛の魔法だ。
「ほれ、華代。
2時にジュースな。」
「ありがとう、お兄ちゃん。」
食べ物を時計の文字盤に見立てて配置する事を、クロックポジションというそうだ。
桃が華代と食事をしている風景はとても興味深かった。
僕も勉強しておかないと、手術までの5ヶ月弱の期間は華代の負担をなるべく軽くしたい。
愛、桃、そして英二のとびきり明るい性格で、鍋パーティーは宴会のような大騒ぎだった。
桃と英二がお笑い芸人の真似をし始めたし、それに笑う愛を見る手塚が満足そうにしている。
その間に、僕はそっと華代を部屋に呼び出した。
「渡したい物があるんだ。」
『?』
座布団に華代を座らせると、誘導の為に繋いでいた手を解いた。
机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
『渡したい物って何ですか?
見えないですけど大丈夫ですか?』
「大丈夫。」
僕は君の隣に座り、その紙を机の上に置いた。
不思議そうにする君の手を握ると、落ち着いた声で問い掛けた。
「これ、何だと思う?」
『その紙ですか?』
君は僕の手をもう片方の手で握り返した。
『そう焦らす必要があるような物なんですか?』
僕は真剣に君の目を見つめた。
それが伝わったのか、君も真面目な表情になった。
「これはね――婚姻届だよ。」
突然の事に、君は目を丸くした。
僕は君を驚かせてしまったのを反省した。
「実は昨日、市役所に用事があってね。
その時に見つけたんだ。」
これを見つけた時、華代の顔が真っ先に浮かんだ。
「当然だけど印鑑も押していないし、僕の名前しか書いてない。
君も名前だけ書いて欲しいんだ。」
『…え…えっ…?』
「最初は遠い将来を考えて、冗談半分で貰ってきたんだけどね。
でも実際に君を前にしたら、言いたくなった。」
僕は君の手を握る力を強くした。
「華代、婚約しよう。」
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