大袈裟
一昨日の豪雨が嘘のように感じる冬晴れの朝。
小夜とシルバーはオーキド研究所の玄関を通り、表札のある門へと出ていた。
オーキド研究所がマサラタウンの端にある為、人通りはなく、近くに家もない。
余り注目されたくないシルバーにとって良い環境だった。
小夜の存在を六年間誰にも気付かれずに済んだのも、この環境があったお陰だろう。
トキワの森を調査する準備が整ったシルバーを見送ろうと、オーキド博士とケンジ、そしてゴーストも門に出ていた。
シルバーのポケモンたちは既にモンスターボールの中に入っているし、小夜のポケモンたちとシルバーは部屋で挨拶を済ませてある。
心配を隠せない小夜がシルバーと向き合いながら言った。
『忘れ物はない?
ちゃんと持った?』
「持った。」
今のシルバーは普段着の上に黒に近い紺色のコートと黒いマフラーを着用しているが、顔や姿を隠すための黒いマントはリュックに入っている。
羽織るとなるとかなり怪しい為、マサラタウンを外れるまでは取り出さない。
マントは今の格好の上から羽織るつもりだ。
「くれぐれも気を付けて調査するんじゃぞ。」
「はい。」
オーキド博士は何時ものように満足そうに頷いた。
その隣にいたケンジが笑顔で言った。
「シルバー、気を付けて!」
「ああ。」
小夜の能力を知らないケンジには、小夜がトキワの森からロケット団の気配を感知した事を伝えられない。
シルバーがトキワの森へ出向くのは、小夜のスイクンがトキワの森の異常を感じ取ったのが理由だとオーキド博士から説明してある。
ケンジに嘘を吐く事は三人にとって心苦しかった。
『慎重にね。』
「分かってる。」
『……。』
「何だよ。」
『…やっぱりシルバーだけが行くなんて…。』
「お前、まだ納得していないのか。」
遠くで見守って欲しいと言ったシルバーがトキワの森へ向かう事に対して、小夜は未だに微塵も納得していなかった。
今日こうやってシルバーを送り出す覚悟は出来たとはいえ、昨日のシルバーの言い分が如何しても言い訳に聴こえるのだ。
『納得してないもん。』
「如何してもか。」
『無理。』
「分かってくれ。」
『やだ。』
頬を膨らませて視線を落とす小夜に、シルバーは参ったように頭を掻いた。
この攻防を続けていても埒が明かない。
シルバーはオーキド博士の斜め上を浮遊していたゴーストと目を合わせた。
「留守番は任せた。」
ゴーストはしっかりと二度頷いた。
シルバーの事が心配だが、自分はシルバーのポケモンではなく、いざという時にボールの中へ入る事が出来ない。
ゴーストは留守番を決意していた。
シルバーのポケモンたちのレベルは高いし、自分がついていけば足手纏いになるかもしれない。
シルバーはしっかり者で慎重だし、心配要らないと思う。
だが小夜の様子を見ていると、何かが起こるのではないかとゴーストの胸を不安が掠めた。
「それじゃあ、いってきます。」
シルバーは拗ねたままの小夜の頭にぽんぽんと手を置いてから、オーキド博士に頭を下げた。
「早く帰ってくるんじゃぞ。」
「いってらっしゃい!」
“気を付けて!”
ケンジは片手を大きく振り、ゴーストもガス状の手を振る。
シルバーは軽く手を挙げると、背を向けて歩き出した。
だがほんの数歩進んだ処で、何かを感じ取って反射的に後方を振り向いた。
―――ドン!
「?!」
駆け寄ってきた小夜に思い切り抱き着かれた。
ぶつかる程の勢いで、シルバーは一歩分だけよろめいた。
遅れて顔が熱くなり、両腕の置き場所に困惑しながら狼狽した。
「な、ちょ、小夜…!」
ゴーストに見られるのはまだいいとして、小夜の育ての親であるオーキド博士とその助手のケンジにばっちり見られている。
オーキド博士は何故か笑顔でうんうんと頷いていて、全く動揺を見せない。
一方のケンジは真っ赤な顔を両手で覆い、僕は何も見てないからと早口で言う。
「小夜、離れろ…!」
『…。』
小夜は離れるどころか、シルバーの背に回す腕の力を込めた。
シルバーが小夜の両肩に手を置いて身体を離そうとすると、小夜は首を横に振って拒否した。
如何したものかとシルバーが肩を落とし、先ずはオーキド博士の目をちらりと見てみた。
オーキド博士はやはり笑顔で此方を見ている。
認めてくれていると思っていいのか、それともオーキド博士が単に寛大だからなのか。
本当に悪い気はしていないようで、シルバーは余計に混乱した。
ケンジはというと、顔を覆っている手の指の隙間からこっそりとシルバーを窺っていた。
シルバーは盛大に溜息を吐き、呆れ返りながら小夜に言った。
「お前にも困ったものだな。」
シルバーの肩口に頬を寄せていた小夜はぎゅっと瞳を閉じた。
シルバーを困らせると分かっていても、気付けばシルバーに駆け寄っていた。
シルバーは宥めるように優しく言った。
「大袈裟だ。
すぐに帰るから。」
『…。』
すぐ帰ると言ったシルバーだが、このような小夜を見ていると、その自信はないに等しかった。
トキワの森に必ず何かがある。
簡単には帰って来られないかもしれない。
シルバーは小夜の肩に置いていた手を華奢な背に回し、強く抱き締めた。
『…っ!』
小夜は一度大きく瞳を見開くと、シルバーを抱き締め直した。
シルバーのコートが暖かい。
何も言わないままお互いに強く抱き合い、そっと離れた。
潤んだ瞳で見上げてくる小夜に、シルバーは囁くように言った。
「行ってくる。」
『うん…気を付けて。
いってらっしゃい。』
小夜は眉尻を下げながら微笑んだし、それを見て安心したシルバーも純粋に微笑んだ。
シルバーはもう一度オーキド博士に軽く頭を下げてから、トキワの森へ向けて歩き始めた。
小夜は振り返らないその背中を何時までも見つめていた。
トキワの森で何があってもシルバーは絶対に帰ってくるから、大丈夫。
何故か小夜にはその自信があった。
それにシルバーが小夜やそのポケモンたちの力なしで行きたいと言うのなら、そうさせてやろうと思った。
だからこそ、無理には引き止めなかった。
シルバーは先程大袈裟だと言った。
シルバーが帰ってきた時、確かに大袈裟だったと思えるようにと強く願った。
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