喧嘩-3
シルバーはエーフィの怒号を思い出しながら食事室へ向かっていた。
昨夜のエーフィは本当に怖かった。
何時も小夜に何かと突っ込みをするエーフィだが、あんな風に激怒しているのは初めて見た。
菜箸で攻撃された場所は跡になってはいなかったが、気のせいかじんじんする。
今から朝食だが、その場に小夜はいないだろう。
何時もなら寝坊しそうな小夜を起こしに小夜の部屋を訪れるのだが、今日はそうする自信がなかった。
今朝も洗面所で遭遇しなかった為、小夜はシルバーを避けている。
気配感知能力のある小夜は避けようと思えば幾らでも避けられるのだ。
「おはようございます。」
既に開け放たれていた扉から食事室に入って挨拶をすると、丁度ケンジが皿を並べていた。
オーキド博士はポケモン新聞を手で広げて読んでいたが、顔を上げて微笑んだ。
朝からバンダナをばっちり装着しているケンジが先に挨拶をした。
「おはよう、シルバー。」
「おお、シルバー君。
おはよう。」
やはり其処に小夜はいなかった。
シルバーはショックなような安心したような感覚がした。
やはり今は小夜に逢いたくない。
だが小夜と一緒ではない朝食はシルバーが風邪を引いて以来で、寂しさは払拭しきれなかった。
シルバーが扉の前で突っ立っていると、ケンジが自分の席の相席にある椅子を引き、笑顔で催促した。
因みにケンジの席はオーキド博士の隣だ。
「ほら、座って座って!」
「…ああ、悪い。」
シルバーは同い年のケンジと随分話し慣れた。
お互いの名前を呼び捨てにしているし、タメ口で話す。
シルバーは自分がロケット団代表取締役であるサカキの息子である事も暴露したが、それでもケンジは歓迎してくれた。
当初、シルバーは小夜に目を輝かせるケンジに一歩引いていたが、今は全くそうではない。
ケンジはポケモンウォッチャーで、ポケモンを観察したり絵を描いたりするのが好きだ。
シルバーのポケモンも何時の間にか観察されていた。
描いた絵を見せて貰った事があるが、かなりの腕前だった。
ケンジがオーキド博士の隣に座ると、シルバーの隣の席がぽっかり空いていた。
毎朝見ている憧れの紫の瞳がない。
全員が合掌し、いただきますと言って箸を持った。
今朝のメニューは目玉焼き、食パン、ほうれん草の胡麻和え、木の実入りサラダ、そしてわかめと絹豆腐の味噌汁だ。
ケンジは毎朝頑張っている。
だが今日の目玉焼きは白身も黄身も驚く程円形で、それこそ絵に描いたような仕上がりだ。
シルバーはこれが人間業ではないと気付いた。
つまり誰が作ったのかというと…
「小夜と喧嘩したようじゃな。」
「…!」
シルバーははっと顔を上げた。
だが、オーキド博士の表情は穏やかだ。
「…小夜から聴いたんですか。」
「うむ、小夜の顔に書いてあったんじゃよ。」
「僕は一応ポケモンウォッチャーなのに、顔を見ただけじゃ気付かなかったよ。
流石はオーキド博士だ。」
シルバーは黙り込んだ。
小夜は感情を隠すのが上手いが、今日はオーキド博士に見抜かれてしまったようだ。
オーキド博士が小夜と長年の付き合いだからか、それとも小夜が冷静を装えなかったからか、何方なのかは不明だ。
ケンジは味噌汁の器を手に持ち、言葉を続けた。
「でも相変わらず料理は上手だったな。
今朝は小夜さんが朝ご飯を作るのを手伝ってくれたんだ。
凄く早起きだったみたいだよ。」
饒舌であるように思わせながら、ケンジは小夜が発する僅かな信号をシルバーに悟らせようとしていた。
オーキド博士はシルバーが眉を寄せたまま閉口しているのを見ながら、モーモーミルクを啜った。
マイペースなオーキド博士の隣で、ケンジはやはり続けた。
「特にその目玉焼きは凄いよね。
型も使ってないのに、神業だよ。」
「……。」
シルバーは依然として黙ったままだ。
するとオーキド博士が口を開いた。
「さあ、食べなさい。」
「はい。」
シルバーはやっと箸を動かし始めた。
それを見たオーキド博士は味噌汁を啜り、身体が温まるのを感じた。
するとケンジが言った。
「ねぇシルバー、小夜さんは本当に綺麗だよね。」
「何だ急に。」
そのような分かりきった事を言われてもと思い、シルバーは反応に困った。
ケンジは困り顔ながらも説得するかのように続けた。
「君が油断すると他の誰かに盗られ――」
―――ダンッ!!
シルバーは左手の拳でテーブルを叩いていた。
三人分のマグカップに入っているモーモーミルクが小刻みに揺れる。
食事室が一気に静まり返った。
シルバーが我に返った時には、驚きの表情で見つめてくるオーキド博士とケンジが目の前にいた。
「…すみません、取り乱しました…。」
「構わんよ。」
オーキド博士はすぐに自分のペースを取り戻し、ほうれん草を頬張った。
如何やら小夜とシルバーはこういった類の喧嘩をしているようだ。
「シルバー、大丈夫かい?」
「ああ…、悪かった。」
「僕は平気だよ。」
ケンジは早く仲直りして欲しいという気持ちから冗談で出した言葉だったが、シルバーにはかなり刺さったらしい。
落ち着きを取り戻したシルバーにオーキド博士が言った。
「シルバー君、今は大切な時期じゃ。
小夜の傍にいてやってはくれんか。」
「……はい。」
シルバーはまた箸を止めてしまっていた。
大切な時期というのが何の事なのか、ケンジには分からなかったが、二人に何も訊けなかった。
「ケンジ、君にも何時か小夜の事情を説明しようとは思っておる。
だがもう少し待ってくれんか。」
「はい。」
ポケモンと話せる以外の小夜の能力をケンジは知らない。
何故幼い頃からこの研究所でオーキド博士の助手をしているのか、一体何処から来たのか。
全く知らないのだ。
オーキド博士は話を戻した。
「シルバー君。
君には君だけにしか出来ない事がある。
それを忘れてはならん。」
「…俺だけ…?」
大切な時期。
それは小夜が何時予知夢を見るか分からない不安定な期間を示唆している。
特に最近の小夜は如何も冷静を欠いている。
オーキド博士はシルバーに小夜を一番近くで支えていて欲しいのだ。
「それに君たちはまだ若い!
喧嘩して当然じゃ!」
突然愉快に笑い始めたオーキド博士を見た二人は目を丸くした。
ケンジが食パンの上に乗せていた目玉焼きがずれ落ちそうになっている。
シルバーは唖然としながら言った。
「怒られると思っていました。」
「わしが君を怒ると?」
「泣かせると承知しないと言われるかと…。」
柔和で温厚なオーキド博士が怒りの形相で、小夜を泣かせるのは許さん!と言うのではないかとシルバーは本気で思っていた。
オーキド博士は小夜を溺愛しているし、四十年前に出逢っていたのを知ったとなると尚更だろう。
「今後もすれ違いはあるじゃろう。
だが君たちなら大丈夫だとわしは確信しておる。」
流石はオーキド博士だと呟いたケンジは、ずれ落ちてしまった目玉焼きを箸で掴んでぱくりと食べた。
シルバーは目玉焼きを見つめながら肩の力を抜いた。
小夜はこれを作りながら、恋人である自分の事を想ってくれたのだろうか。
「今日、小夜と話します。」
面と向かってしっかり謝り、何故怒ったのかも全部説明しよう。
オーキド博士とケンジは目を合わせ、にっこりと笑った。
2015.3.4
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