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「御免くださーい」
蝶屋敷の玄関で、匡近が屋敷内にのんびりと声をかけた。
せっかちそうな足取りで現れたのは、花柱の妹である胡蝶しのぶだった。
匡近は人当たりの良い笑顔を見せた。
「おはよう、しのぶちゃん」
「粂野さんに不死川さん、おはようございます。
お怪我ですか?」
「昨日から実弥が世話になっているんだ」
「そうでしたか、それなら診察室へどうぞ」
匡近の奴、今回も廊下までついてくる気だ。
玄関から診察室へと続く廊下を進みながら、匡近が胡蝶に訊ねた。
「昨日は円華ちゃんに見てもらったんだけど、今いるかな?」
はァ?!何を訊いてやがる!
俺はあの女に逢いに来た訳じゃねェ!
慌てた俺が鋭く睨み付けても、匡近は知らんぷりだ。
胡蝶は俺の表情を不審に思ったのか、怪訝そうに眉を顰めた。
「円華ならいますが、重体で運ばれた隊士を緊急で執刀して、無事に終わったばかりですので…」
執刀ということは、手術か。
あの女、執刀までするのか。
「執刀か…相変わらず凄いな」
「あの子は天才なんです。
死に直面した隊士を何人も救っていますから。
ここではあの子にしかできない治療も沢山あります」
あの女のことを話す胡蝶は、何だか嬉しそうだった。
この屋敷であの女と胡蝶姉妹が共に暮らすようになってから、まだ浅い筈だ。
あの女がここで上手くやっているようなら、俺も安心する。
……俺が安心してどうする。
胡蝶は誰もいない診察室の扉を開けた。
「円華を呼んできますね。
もし執刀後で疲れているようでしたら、私か姉さんが治療しても構いませんか?」
「構わないよ、しのぶちゃん。
わざわざありがとう、頼んだよ」
胡蝶は廊下の先へと歩いていった。
消毒液と藤の花の匂いがする診察室に、匡近が俺をグイグイと押し込んだ。
「俺は廊下で待ってるからな。
もし円華ちゃんが来たら、ちゃんとお喋りするんだぞ」
「先に帰りやがれ」
「お?もしかして二人で長くお喋りしたいとか?」
「んな訳ねェだろォ!クソがァ!」
俺の暴言など聞き慣れている匡近は、愉快に笑いながら俺に手を振り、扉をパタンと閉めた。
俺は診察室に一人で残された。
匡近のお節介に対する苛立ちと、今からあの女に逢うかもしれないという緊張が、脳内でぐるぐると混ざり合った。
別に治療など蝶屋敷の人間なら誰でもできそうだというのに、わざわざあの女を呼びつけるなど、羞恥にも程がある。
「クソォ…何だこの状況はァ…!」
昨日も腰掛けた椅子に力なく腰を下ろし、一人で頭を抱えた。
あの女に来て欲しいような、そうでないような。
自分の感情だというのに、意味が分からなくて混乱する。
すると、扉を三度叩く音がした。
俺の肩と心臓がビクッと跳ねた。
姿を現したのは、優美な羽織を纏うあの女だった。
「お待たせしました」
そんなに待っていない。
執刀後なのに、疲れているのではないか。
わざわざ呼び出してしまって、申し訳ない。
気の利いた言葉が出ない自分を情けなく思う。
「来てくださったのですね」
ふわっと柔らかな微笑みを、愛らしいと思った。
目を奪われていることに気付くまで、数秒を要した。
俺が何も話さずにいても、女は気を悪くしているような表情を見せないし、疲労を表に出さない。
「見せていただけますか」
俺の前に腰を下ろした女に、俺は大人しく左腕を出した。
斬り傷が重なっている前腕に、包帯は巻かれていない。
微笑んでいた女が、困ったように眉を顰めた。
「包帯は?」
「…解いた」
解いたのは見れば分かる。
水を浴びた時に解いたのだが、巻き方が分からずに巻き直せなかった。
そう言えばいいのに、言葉足らずだ。
俺はこんなにも口下手だっただろうか。
「本来なら縫合した方がいいのですよ。
斬り傷が重なっていますから、それが難しいのです。
せめて包帯は巻いておいてください」
消毒が始まると、昨日と変わらない痛みがあった。
腕に手を添えられると、やはり肩が跳ねそうになる。
昨日から思い出してばかりの女が、ここにいる。
寝不足の原因となった女だ。
「任務の帰りですか?」
俺は女から視線を逸らしたまま、小さく頷いた。
話を振られるとは思わずに、緊張してしまった。
丁寧に包帯を巻く女を、ちらりと見た。
端正な顔立ち、長い睫毛、そして真剣な表情。
俺から見られていることに気付いた女と、視線が合った。
顔が熱くなるのを感じた俺は、それをどうすればいいか分からずに、女を睨んでしまった。
呼び出してまで治療をさせている女を睨むとは、失礼にも程がある。
「痛みますよね、もう少しですので」
申し訳なさそうに言う女に、こちらまで申し訳なく思う。
匡近、俺にはお喋りなんざ無理だ。
結局この日も碌に話せないまま、治療は終わったのだった。
2022.3.22
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