9-2
私と実弥さんは無言のまま、二人だけで蝶屋敷の廊下を歩いていた。
辿り着いた先は、二階にある私の部屋だ。
私は慣れた手付きで扉を開けて、実弥さんを招き入れた。
「どうぞ、私の部屋です。
特に何もありませんが…」
最低限の物しか置いていない私室。
アオイやきよたちが積極的に掃除をしてくれるから、留守にしても清潔に保たれている。
天井近くまである本棚には、医学や薬学の分厚い本が所狭しと並べられている。
読書が好きな私は、本の収集も好きだ。
「お前の匂いがする」
やっと口を開いたかと思えば、実弥さんはそんなことを言った。
私が物珍しそうな視線で実弥さんを見るから、実弥さんは少しばかり頬を赤らめながら、自分の口元に慌てて手を遣った。
「変態かよ…」
私はつい笑ってしまった。
実弥さんは不機嫌そうな目をした。
「笑ってんじゃねェ」
「ごめんなさい」
後ろ手で扉を閉めた実弥さんが、私に早足で近付いてきた。
そして、まるで壊れ物を扱うかのように私を抱き締めた。
実弥さんは私の左腕に負担をかけないように、自分の右腕を私の左脇から背中に回した。
「痛くねぇか」
「平気ですよ、鎮痛剤を打っていただきましたから」
「一緒に寝た時も、横抱きで運んだ時も、痛かったんじゃねぇのか」
「いいえ?」
実弥さんがやっぱり優しい。
私は実弥さんに縋るように抱き着いた。
毒々しい二の腕だけれど、見た目に反して痛みは少ない。
鎮痛剤を一度は断った程だ。
「気付いてやれなくて…悪かった」
「実弥さんは何も悪くありません。
隠していた私が悪いのです」
「それでも気付いてやりたかった」
「実弥さ、んっ…」
顔を覗き込まれたと思ったら、あっという間に唇を塞がれた。
何度も角度を変えて、啄むような甘い口付けが降ってくる。
それに応えていた私は、口付けに溶けてしまう前に、実弥さんの肩を弱々しく押した。
実弥さんは怪訝そうに眉を顰めた。
「…んだよ、嫌だってのかァ?」
「違います…ですがこれでは私が反省しませんから…もっと怒ってください」
「怒ってねぇよ。
話を聞いてる間は確かに怒ってたけどなァ」
怒鳴られるのも覚悟していたのに。
実弥さんは私の頬に唇を寄せた。
「怒るとかいう感情よりも、お前を失うのが怖い」
「私はしぶといですよ」
実弥さんも私も、仲間が亡くなるのを何度も見てきた。
鬼殺の剣士であるからには、明日の命の保証はない。
それでもこうして生き延びてきた。
「今回で毒を打つのは二度目らしいじゃねェか。
三度目はねェからなァ」
「……」
「オイ、返事しやがれ」
もし仮に、私だけが誰かを救えるような状況になれば、私は再び自分に毒を打つのだろうか。
たとえそれが、実弥さんやアオイたちを哀しませてしまうとしても。
「何考えてやがる」
「実弥さんを哀しませたくないと思って…」
「ならもう毒なんざ打つんじゃねェ。
またお前が毒を打つかもしれねェと思うと吐き気がするし、気が気じゃなくなる」
実弥さんは私の右肩に額を置くと、呟くように言った。
「お前が大事で仕方ねぇって言っただろうが…」
絞り出すように言った台詞から、実弥さんが苦しんでいるのが伝わる。
大切なこの人を、苦しませてはいけない。
「二度とするんじゃねぇぞ」
「分かりました」
「言ったなァ?
もし三度目があったらどうしてくれようかァ?」
「どうしましょうか、出家でもします?」
「バカかァ…絶対にやめろ」
私が面白おかしくて笑うと、実弥さんも小さく笑った。
二人でもう一度だけ口付けを交わして、間近で見つめ合った。
「そろそろ出掛けるかァ」
「着替えますから、少し待っていてください」
「外で待ってる」
実弥さんは私の頬に手を滑らせてから、部屋を後にした。
私は箪笥から袴と着物を取り出した。
実弥さんと二人で初めてのお出掛けだ。
この機会をくれた師範に感謝しなければ。
私は心躍らせながら、軽快に準備を始めた。
2024.6.1
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