テニススイッチ、オン
水野が愛に告白した翌日、9月中旬の放課後。
俺と愛は青学の男女共用テニスコートでラリーをしていた。
既にネットは張られておらず、テニスボールも愛が持参している物を使用している。
空も暗くなり始めていた。
「お前の家で勉強会をするんじゃなかったのか。」
俺はテニスボールが緩い弧を描く程の打球を返した。
愛もトスのような打球を返してきた。
『期末テスト、学年6位だったもん。』
「それは褒めてやる。」
愛の体調は快方に向かっている。
ラリーは可能だが、試合は厳禁だ。
『てや!』
突然、愛が強めの打球を叩き込んだ。
少しばかり目を見開いた俺はラケットの面でボールの回転を抑え、再び緩く返した。
「調子に乗るな。」
『ちょっとだけ!』
愛は回転を掛け易いようにグリップの持ち方を変えた。
テニススイッチがオンになってしまったようだ。
緩めの打球は愛の思うツボで、愛は得意の超回転を掛けた。
その表情は輝いていて、テニスをする幸せを噛み締めていた。
しかし、俺は愛の身体が心配だった。
『国光ファントムは如何?』
「愛、抑えろ!」
長い摩擦音と共に跳ね返った打球の超回転は、ラケットの面で抑え切れない。
一先ず、一度打ち返した。
ファントムで回転をコントロールするなら、次の打球以降が妥当だ。
気付けば、愛の両腕に微かなオーラが見えた。
バックハンドの体勢で飛び上がり、ラケットを振り抜こうとしていた。
『バックハンドクラッ――』
「愛!!」
俺の一際大きな声に、目を見開いた愛は思い留まった。
地に両足を着け、深く息を吐いて俯いた。
テニスボールはフェンスにぶつかって跳ね返り、静かに転がった。
俺は愛に近付き、右手で愛の肩に手を置いた。
「無我の境地だけは絶対にやめろ。
あれは身体の負担が大きい。」
愛はメニエール病で入院する直前の国際大会の決勝戦で、無我の境地の扉を一つだけ開いた。
原因が分からない体調不良に怯えていた愛が、早く試合を終わらせようとしたからだ。
それがメニエール病の症状に拍車を掛けたのも否めない。
愛はたった一度だけ、二つ目の扉まで開いたと話していた。
相手は今も世話になっているテニススクールのコーチだそうだ。
「今は無理をするな。」
『……うん、分かってる。
分かってるけど…。』
俺は左手に持っていたラケットを放り、愛の身体を引き寄せた。
愛は俺に抱き着きながら、小さく笑った。
『ねぇ、此処テニスコートのど真ん中。』
「知っている。
誰もいない。」
愛を励ますように抱き締めた後、お互いにゆっくりと離れた。
口付けてしまおうかと思ったが、流石に控えた。
「そろそろお前の部屋に行くか。」
『分からない課題がいーっぱいあるの。』
俺の門限は定められていないが、基本的に夜の8時までに帰宅するようにしている。
それまで愛としっかり勉強しよう。
2017.5.26
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