1.

 ナターシャが目を覚ました時、キャラバンは既に街門を通り越して、街の中へと入っていた。おそらく街の中で一番広い道、真っ白な砂の大通りを、三台のキャラバンはゆっくりと走る。今回ナターシャの所属するサーカス「Aula」が公演を開くこの街は、海辺に広がる平野の中の古城をベースに築き上げた、古風な城下町だと聞いていた。公演場所は街の外れにあるらしい。大きな劇場だそうだ。
 キャラバンの中をぐるりと見渡す。他の団員の姿は無かった。
「……何か、腹に入れねぇとな」
 少女らしからぬ口調で言い聞かせるように呟き、ズック製の水嚢と携帯食料をたぐり寄せる。
 窓ガラス越しに見える早朝の大通りは、日の出の早い夏でもまだほの暗い。人は一人もいなかった。背が高いパルマエ――ヤシのような木々が、等間隔に窓を通り過ぎていく。
 道の両脇には、果物屋、肉屋、魚屋、反物屋、飾り物の店などの屋台がずらりと並んでいる。市場バザァルだ。どこも店口には布がかかっており、品を並べる棚は閉じられている。きっと昼時には靴磨きの少年や、カニの姿揚げモエケを歩き売りする少女、大きな壺を抱えた女性、水桶を竿に吊るして負う男性なんかが、この通りを隙間なく埋めるのだろう。ナターシャはその景色を想像して目を閉じる。日焼けした屋台の屋根たちが輝きを取り戻す昼までは、まだ時がある。
 目を開き、ゆったりと後ろに流れていく屋台をなんともなしに眺める。
ふい、とバザァルから目を逸らした先に、人がいた。
 バザァルの奥、大通りからわずかに見える深い森。その入り口に、白い麻の服を着た色白の青年が立っていた。あんまりにも白すぎて、当人の黒い髪や瞳が青く見えるほどだ。その青年は、キャラバンをじっと見つめていた。ナターシャの乗るキャラバンはサーカスを乗せるに相応しい華美な車体をしているので、物珍しいのだろう。どこが一番目立つだろうか。たてがみを細かに結われた大きな二匹の馬、特大の四つの車輪、煌々しい車体、窓の飾り……。
 青年の視線がずれた。瞬き一つ分の僅かな時間、青年とナターシャの目が合う。
 かちり、と、体のどこかで音が鳴った。
 キャラバンを引く馬の蹄の音が早く感じた。森も青年も、すぐに見えなくなる。後ろへ流れていったその姿を、ナターシャは何回も頭の中で反芻した。
 あの人、どこかで……。
「ハローハロー、こちら一号車ハンネ。皆おはよー! ミーティング始めるよ〜」
 無線機の声でハッと我に返る。ノイズ混じりでもなお柔らかい物腰の声は、女団長ハンネのものだ。
 急いで身支度を整える。ミーティング後は往々にして時間が無くなるのだ。踊り子衣装を着て、ストレートの髪をクセづける為に三つ編みに結い込み、長いリボンの付いたバレエシューズを履き、糸で縫い止めなければならない。化粧は崩れるのでできない。
 一番時間が掛かる化粧ができなくとも、ここまででそれなりに時間を取られる。
「用意ができた人から、点呼よろしくね〜。以上」
 ピ、ガガ、とノイズを挟み、点呼が始まる。
「一号車ジン、準備もクソも無い。以上」
「二号車イツキ、同じくです。眠いのは分かりますけどもうちょっと言葉選びましょうよジンさん。以上」
「三号車シューニャ、こちらも良いよ。カーリーも一緒にいる。彼女も準備は良いそうだ。二人とも、もう少しだから頑張ろうね。以上」
 御者としてキャラバンを走らせる男三人が一番早い。御者はキャラバンの番号順に点呼を取るのが暗黙の了解だ。
「二号車、リィ……今起きました……準備しながら聞きまぁす……」
 少し時間をおいて、地を這うような低い女声が続く。呪師のリィは朝に弱い。いつもは寝起きの悪さをからかう立場のナターシャだが、今日はそうもいかない。ナターシャはようやく着終えた衣装の上に黒い前開きのパーカーを羽織った。
 キャラバンは先頭から三号車、二号車、一号車と並んで走っている。一号車が動物、二号車と三号車が道具や食料を乗せており、各キャラバンに団員が必ず二人乗って交互に御者をしている。団員は全八名。
「一号車ローナ、問題ありません。以上」
 一号車に乗る猛獣使いの副団長は固定である。御者当番から外されたもう一人は三号車に乗る決まりだ。
「三号車ナタリア、準備完了。以上」
 カーリーが御者台に行っていなければバレていた嘘を吐きながら髪を結い上げ、フードを目深に被った。まだシューズを履く作業が残っている。
 ――当番が休みだからと言って、少し寝過ぎたかも知れない。
   ◇ ◇ ◇
「珍しく最後じゃん、ナターシャ。よく眠れたかな?」
 ハンネは意地悪っぽい声音でナターシャを軽くおちょくってから、今日の日程、分担と演目内容の確認に入った。
「――問題なさそうだね。じゃ、今日も一日がんばろー!」
 ミーティングが終わるとほぼ同時に、劇場に到着する。ハンネは毎度ぴったりのタイミングでミーティングを行うが、どんな仕掛けがあるのだろうか。謎である。
 バレエシューズの上に大きめのズックを履いてキャラバンを降りる。事前に見取り図は渡されていたが、思ったより綺麗な外装の劇場だった。白い壁面は古びてこそいるが、丁寧に手入れされていることが窺える。
 劇場の予約は済んでいるので、鍵は開いていた。この辺りは比較的治安が良いらしい。
見世物はテントが主流だ、と以前どこかで聞いたが、Aulaは富裕層をターゲットにしているサーカスだ。大体はホールや劇場と呼ばれる場所を借りて公演している。劇場は中央にステージがあるアリーナ形式、一辺に真っ直ぐなステージがあるエンドステージ形式、張り出し舞台があるスリーサイド形式など場所によるが、今回の劇場はスリーサイドだ。場所に合わせて会場を作り替えるのには結構な手間と時間が掛かる。早朝の現場入りでも時間との闘いだ。手早くやって休みたい。
 受付を済ませ、積み荷を運び込み、各自が担当する場所の準備に取りかかる。ナターシャは無機質なセメント固めのステージに最近新しくしたリノリュームを敷き、バレエシューズで松ヤニを踏み砕いた。そのまま広げて滑り止めにするのだ。手早く済ませて天井の照明を取り換え、吊り具や仕掛けの仕込みを――。
 ――あの人は、今夜のサーカスに来るのだろうか。
「んっ!」
 がくん、と体が揺れ、浮遊感に襲われる。木の脚立の段が腐っていたらしい。電球を片手にナターシャは段を踏み抜き、バランスを崩して倒れる。フードが外れ、ふわりと耳を触った。ナターシャの赤い右目が見開かれ、白い髪が露わになる。
「ぅおい! ……ったく、危ねェなぁ」
 それを受け止めてくれたのは、玉乗りピエロのジンだった。色の黒い、野熊のような若い大男だ。筋骨隆々とした体つきに似合わず、繊細な腕遣いでナターシャをやわらかく受け止め、リノリュームの白い床に下ろしてくれた。
「気を付けろよォ? ナターシャが怪我したら、わざわざ来てくれたお客様に顔向けできねェんだからさ?」
「……悪かったな、注意するよ」
 苦笑いしつつ頭を撫でてくるジンの手を払い、素早くフードを被り直してから、ナターシャは渋い顔で礼を言った。
 ――落ちても問題なく着地できたのに。
 心配してくれる心遣いは嬉しいが、素直に喜べない。同時にキャラバンに乗り込んだジンとは、お互いなんとなく、好敵手のような立ち位置にいるのだ。若く体格の良いジンは、ピエロの面を外すと彫りの深い綺麗な顔立ちをしており、看板娘のナターシャと人気を二分している。「負けたくない」「同等でいたい」という見栄や意地が邪魔をするのだ。
 それに、女だからと弱い者扱いされるのは、純粋に気にくわない。
「おいそこー、だいじょーぶー?」
 舞台袖に小道具をセッティングしていたリィが顔を出す。雑技用の赤いレオタードにタイツだけでは寒いのだろう、羽織った白いボレロを翻してこちらへやって来た。丁寧に肩口で切りそろえられた濡れ羽色の髪が、暗めの照明の下で色っぽく揺れている。
「やめてよ? こんなところで怪我されちゃあ、アタシの仕事増えるんだから」
 リィは紅い唇をきゅっと持ち上げ、切れ長の目をさらに細めて笑みを作った。目だけが笑っていない。
「それとも、アタシに、観客ぜぇんぶ取られたい?」
「「すみませんでした」」
 ねっとりと笑うリィを見て、二人揃って脊髄反射的に腰を九十度折った。キャラバンに一年早く乗っていたというリィは、中国の雑技団で腕を磨いてきたベテランである。場数が違う。二人とも頭が上がらない。
「三人とも、そんなとこで喋ってないで。手、動かして。手」
 静かに声がけをしてきたのはローナだ。三人ともびくりと肩を震わせる。サーカス創立時から裏方を務めてきたこの西洋美人には、このサーカスの誰も適わない。ざっくりまとめあげたブロンドの髪から汗の滴を散らし、サロペットの紐を腰辺りで揺らしながら、てきぱきと大道具を動かしていた。その動きを止め、ローナは軍手を嵌めた右手の人差し指を立て、くるりと回す。
 示されるままに、三人は背後を振り向く。
「団長は性格上、強く叱れない子なんだから」
 そこには苦笑いをしたハンネが、大道具を抱えて立っていた。オレンジに近いブラウンの短髪をくしゃりとかき回すように頭を掻いている。困っているときのハンネの癖だ。
「うーん、まあ、気を付けてくれればいいんだけどね? 無事ならいいかなーなんて、いやまあ、よくはないんだけどさ」
「「「大変申し訳ありませんでした」」」
 腰を折る人数が、一人増えた。

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