或いは、昨日見た夢

 ぼおぉぉお、と、くじらの鳴く声がする。あたりは濃紺の闇に包まれていて、何も見えない。
 束の間の静寂。
 再びの鳴き声の後に、視界が薄っすらと明るくなる。星が見えてきたのだ。丁度、夜の暗闇に目が慣れるのと同じことが起こっていた。地面は無い。夜空に放り出されたようだった。一つ、一つと、星の輝きが増していく。
(どこまで行こうか?)
 どこからか聞こえた深い声に、辺りを見回す。相変わらず、星空のようなものが広がるばかりだ。足元を見たナターシャは、踊り子衣装を纏った自分の手足が、十年前のものであることに気付いた。真っ白で小さな、傷まみれの手足。ナターシャは一瞬息を飲み、それを静かに吐き出す。
 ――そうか。これは、夢か。
(ほら、街灯りが見える)
 気付くと、大きな白いくじらが、目の前に浮かんでいた。夜空に浮くくじらは、星の一つのようにも、全く違う、もっと大きなもののようにも見えた。ナターシャに語りかけるこの心地良い響きは、くじらのものだった。
 ――ああ、見えるな。
 いつの間にかナターシャは、硬く冷えた地面に、小さな足をつけて立っていた。夜空は、遥か上空に押しやられている。そこから見える街は、暗いようで明るく、曖昧なようでくっきりと、ナターシャの目に映った。
 ゆっくりと、しかし着実に、辺りが明るくなっていく。
(さあ、あそこへ行こう。今度は、あの場所で)
 頭上のくじらが大きな尾をひと振りして、夜空を裂き、その街の方へ泳いでいく。くじらが通った場所から、尾ひれに打たれて砕けた夜空の欠片が降ってくる。
「待って」
 ナターシャは、くじらを追いかけて走りだした。
(あなたはきっと)
 くじらの白さが増していく。
(見つける筈だ)
 空も白んで、様変わりしている。否、空の欠片が落ちたところから、全く違う空が顔をのぞかせているのだ。
 深緑色の、熱帯夜の夜空。
 割れた空のひびは広がり、やがて完全に砕け落ちた。空の縁は、熱情的な、赤。
 いつの間にか地平に現れた青は、くじらの故郷の海だ。
 その景色は、何かを鼓舞するように、未来を囁くように……ナターシャの心の中を、ゆっくり、静かに掻き乱した。
「選ばれた場所を!」
 そう叫ぶくじらの声は、ナターシャ自身のものに変わっていた。
 その声を合図に、その風景は、崩れ去って闇に飲まれてしまった。

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