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猫又

幸男は真黒な猫だった。濡れた鼻はヒクリと動き、耳は気怠げに立ち、先が2つに分かれた尻尾は優雅にゆらゆら揺れている。
幸男は美しい猫又だった。長い間生きていた彼はもはや生殖機能を持たず、発情期も迎えなかったが、変わりにしっとりと黒い毛並みは光に当たって銀に煌めき、大きな瞳には夜が明けきる前の澄んだ空が取り残されて、その中でキラキラと白い星が舞っていた。
それなのに、幸男の心には、彼の毛並みのようにしっとりと濡れそぼった黒い毛が絡みついて離れないのだった。彼はむなしさを感じながら、彼の周りに侍る牝猫を尻尾で追い払った。
幸男の姿が物珍しいのか、刹那の周りには彼とは比べ物にならないほど若い牝猫がはべっていた。ヒト達に幸男の姿は見えないが、同胞である彼女達の目にはハッキリと写っているのだ。もっとも、遥か時の彼方で薄れつつある記憶のお蔭で、発情期がいつなのかにすら興味がない幸男にとってはとても迷惑な話だ。まだ彼のしなやかな尻尾が根本で分かれていなかった時分には、彼は彼女達と対をなす性別を持っていて、大層対に苦手意識を持っていた気もするが、それすらもおぼろ気で幸男にとって重要な意味を成し得なかった。
日向ぼっこを邪魔して首もとを擦りよせる牝猫達に少し苛立ちを感じながら、幸男はふらりと立ち上がった。たいした反応も見せずに立ち去ろうとする幸男に、牝猫達は不服の声を上げたが、彼は振り返りもせずにゆらゆらと尻尾を揺らした。

幸男は静かで居心地がいい薄暗がりを探して、ぽてぽてと歩いていった。晴れ渡る空にポツリと浮かんだ太陽は、丁度良い具合に家々の屋根を暖めていたが、もう日向でうつらうつらと転た寝をする気分ではなくなっていた。

丁度いい塩梅の暗がりを見つけた幸男は、投げ出した前足に顎を乗せて、時折遊ぶように流れる風を耳と尻尾でなぞって暇をつぶした。遠くに広がるうららかという言葉がよく似合う昼下がりは、薄闇に慣れた目に眩しく光った。
と、そこに、耳のいい幸男にとっては些か大きな、ドン、ドン、と品の無い音を響かせて、ヒトがやってきた。ゆっくりとした間隔から、小さいヒトでは無さそうだ。小さいヒトの中にはなぜか、幸男を視ることができる個体が存在する。視える変わりに知能の低い小さいヒトは、猫の牝達のように何かと幸男を追い回す習性がある。ごく稀に、大きいヒトの中にも幸男を視ることができる個体が存在することもあるが、彼らは幸男の奇異な姿を視ると、なにか恐ろしいものでも視たかのようにすぐに視線を逸らして、その場から離れるのが常だった。
そもそも、幸男が二股尻尾になってから今日までの間で、視えるヒトは 随分少なくなった。前の秋も、そのまた前の秋も視えるヒトに遭遇していない気がする。
そんなことを考えていると、足音は幸男の目の前で足を止めた。昼下がりの光の温もりは陰に遮られ、それと同時に湿った冷たい日陰の匂いが幸男の鼻をくすぐる。
幸男はウトウトと今にも閉じてしまいそうだった目蓋を慌てて持ち上げた 。瞳孔が急激に拡張して、幸男から微睡みを奪ったヒトを捉えるのが分かる。
愚鈍なヒトはゆっくりと目線を合わせると言った。
「ねぇ、うちに来ない?」
永久にも思える長い長い暇な時間を持て余していた幸男は、パチリ、パチリ、と瞼を上下させて少しの間思案した後に、のそりと起き上った。
それが奇異な提案を持ち出したヒトへの応えだった。
逃げることも、警戒することもなく、自然に立ち上がった幸男に、ヒトは満面の笑みを浮かべた。
「OK?じゃあ、一緒に行こう」
そう言って、ヒトは幸男を抱き上げた。抵抗しようかと考えたが、抱かれた腕に記憶の底を優しく撫でられて、幸男はそこに落ち着くことにした。毛並みを逆立てられた記憶は、すぐにその他の大量の記憶に撫で上げられて、ただ、温かさだけが残る。むず痒い居心地の良さに、幸男は目を閉じた。
先ほどより少し早く歩くヒトの腕の中は、その品の無い足音に比べてむやみやたらと揺れないことに安堵を込めて、幸男は小さく鳴いた。

ドンドンドン、と体に響く足音と共に時間が過ぎて行った。ヒトは幸男の気が変わって逃げられることを恐れているのか、少々気が急いているようだった。
「着いた」
ヒトは小さく言って、慎重に幸男を地面に下した。
「ちょっと待ってて、鍵開けるね」
チラチラと時折此方を視ながら、ヒトは手に持ったものを探り始めた。腕から解放したのはあちらの癖に、面白いほど心配そうにこちらを確認してくるので、幸男は少しの鬱陶しさを感じて大きく欠伸をして見せた。ヒトはその姿を催促だと考えたらしく、「鍵、すぐ開けるから」と幸男の頭をひと撫でした。
ガチャガチャと音を立てて、ヒトは扉を開けた。
「入って」
扉を支えるヒトの足元をすり抜けて、幸男は部屋の中に入った。続いてヒトが入って扉を閉める。
「ここにいて」と一言言いおいて、ヒトは部屋の奥に消えて、少ししてすぐに戻ってきた。
「体、ちょっと拭かせてね」
そう言ってヒトは湿って温かい布で幸男の足を拭い、体に櫛を入れて軽く砂埃を落とした。
「よし、綺麗になった」
ヒトは幸男の背をポンポンと撫ぜ、また腕に抱き上げた。
「ようこそ。猫さん。俺は涼太。よろしくっす」
涼太はそこで、しばし黙した。
「猫さんは……なんて呼ぼう?名前はあるの?」
うーんと考え込む。それに応えようと幸男は腕からすり抜けた。床に着地する寸前にヒト――涼太と同じ種族に変化する。ヒトのおかしで平らな足が、床を踏みしめた。
「俺の名は、ある。幸男だ」

*

綺麗で不思議な猫を見つけた。目にした瞬間に見ているのではなくて、視えているのだと分かった。二股に分かれた尻尾は異形の象徴だが、そんなものがなくてもハッキリと理解できるほど、彼は神秘的だった。無意識に歩み寄り、話しかけると、黒猫は目を見開いた。一緒に来ないかと問いかけると、朝の清廉な空気のような、そんな綺麗な瞳はゆっくりと瞬き、逡巡する素振りを見せ、そしてゆっくりと立ち上がった。
人の言葉をはっきりと認識しているのか、抵抗の薄い猫を抱き上げて、家に連れ込む。異形である猫を家の中に招き込むことに、特に抵抗はなかった。
落ち着いて考えてみると、少し危なっかしいことをしてしまったのかもしれない。それでもこの黒猫を一目見た瞬間に、俺はこの猫を連れて帰らなくてはと強く感じたんだ。それが、太陽の暖かい光に朝霧が薄れるように危機感を綺麗に拭いさった。
運命、だなんてチープな言葉では語り尽くせない直感に、俺は今でも深く感謝している。

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