ぼんやりと夜が明け始めた頃。

「……ジタン様。」

「お……おはよう、ミノン。早起きだな。」

早く目が覚めてしまい、井戸で顔を洗っていたジタンは、不意に後ろから声を掛けられた。水気を拭って顔を上げる。目に映ったのは、しっかり外套まで着けたミノンの姿だった。何故か、初めて会った日のことが思い起こされる。周囲の環境も、彼女の笑顔も、何も似ていないというのに。

「今まで、ありがとうございました。――行って参ります。」

深く辞儀をすると、彼女は風に浚われるかのごとく姿を消した。ジタンが目を見開く。弾かれたようにその場から駆け出した彼は、急いである男の部屋へ向かった。部屋に入るより前、廊下で目的の姿を見つける。

「サラマンダー! どこ行くんだ!?」

「…………あいつが、いない。……何も聞いていない。」

ジタンの問いに、彼は振り返らず端的に答えた。その台詞を聞き、ジタンが鋭く息を飲む。

「…………どうかしたのか。」

振り返った彼の目には強い光が宿っていた。無言で続きを促す。

「……さっきミノンに会ったんだ。そしたらあいつ、今まで、ありがとうございましたって……!」

ジタンは叫ぶように、伝えに来た言葉を口にした。“今まで”“ました”……欠片が耳に突き刺さる。その言葉があれば、彼の疑いは確信へと変わらざるを得なかった。

「様子がおかしかったんだ! まるで、……いなくなっちまうみたいじゃねえか……!」

彼が最後まで聞かずに駆け出す。彼女の行き先は知らない。どこへ向かえば良いのかもわからない。それでも彼は速度を上げていった。まるで、何かに導かれるように。

草原にいたはずなのに、気づけば寝台で眠っていた。夢かと思えば、薄らとあの芳香がする。身体を起こすと、まるで薬で眠らされたような倦怠感があった。ぼやけた思考で記憶を想起しようとして蘇るのは、あの闇に溶けそうな姿ばかり。耳の奥で「ありがとうございました」という細い声が反響する。そして彼女の部屋を見れば――誰もいない。

それだけの要素があって、気づかない方がおかしかった。身体中が警鐘を鳴らす。このままでは彼女は帰って来ない――失ってしまうと。何故これほど強く思うのか、その理由を彼は知らなかった。しかし今は知る必要もないと感じた。途中で天地が混ざるような、どこか懐かしい感覚に捕われて一瞬目を瞑る。

瞼を上げれば、そこは輝く結晶に一面覆われた世界だった。陽光も音もない。記憶の積み重なる場所……否、その先の世界に、空気も光景もひどく似ていた。いきなりの変化に驚いた彼が、素早く辺りを見回す。すると、少し遠くに――求めていたものを見つけた。

「……っ! サラマンダー様……!」

追っていた少女だ。彼女は心底驚いた様子で目を見開いていた。彼が走り寄る。

「…………何をするつもりだ。……どこへ行く!」

怒気すら孕む鋭い大声に、彼女は肩を震わせた後……そっと俯いた。

「…………。……この世界を、救います。そのために、テラを……蘇らせます。」

「……どういう、意味だ。」

「…………記憶が積み重ならなくなれば、クリスタルが老い……滅びてしまう。それなら、記憶を消せば良いのです。新たに生をやり直すために。そして……テラの魂が、還る場所を。テラの民が、帰る場所を。――ガイアと共に、在れるように。」

彼女が振り仰いだ中空には、鈍い光を発する結晶があった。その色は燃え尽きる寸前の炎にも似ている。それを再び燃え上がらせようというのだ。その、小さな手で。

「対の者がいる今なら、力は均衡を保てます。大規模な術ですが……テラもガイアも危険はありません。」

「っ……そんなことが聞きたいんじゃない。おまえは、……おまえはどうなる。」

彼が低い声で問う。彼女は再び下を向き、何も答えなかった。小さく息を呑んだ彼がその白い手を掴もうとする。

「……ごめんなさい。」

彼女がそう言った瞬間、彼はピタリと動きを止めた。――動けなくなったのだ。伸ばそうとした手が、動かない。

「さよなら。――だいすき。」

彼女はふわりと浮かんで彼に頬を擦り寄せると、吸い込まれるように宙へと舞い上がっていった。追うことはできない。遠ざかっていく。手は届かない。薄らいでいく。名を呼んで、取り戻せない。

やがてその姿は、クリスタルの中に消えた。

次の瞬間、白い光が溢れる。すぐに彼の身体を空間転移の輝きが包んだ。呑まれて気を失う。

彼女の残した笑みが、瞼の裏に焼き付いていた。



彼が再び目を覚ました時、真っ先に視界を覆ったのは朱色だった。空が夕焼けに染まっているのだ。徐に身体を起こす。

切り立った岩々。満ちる清浄な気。そこは、彼女が昨日彼を導いた場所――アレクサンドリアの水源だった。様子は昨日と何ら変わらない。彼はしばらくの間の後ゆっくりと立ち上がり、解すように身体を伸ばした。それから何かに呼ばれたかのごとく山を下り始める。空は徐々に朱から藍へと色を変えていたが、彼は歩調を変えなかった。ただ淡々と歩き続ける。

辺りが闇に包まれた頃、彼はある崖の上に立った。迫(せ)り出した大岩を伝って降り始める。手を伸ばし、足を伸ばし……一つ一つ、単純作業のように。

やがて軽い音と共に、彼は足を地面につけた。そのすぐ隣には――淡く輝く花弁。

彼が立ったのは、あの白い花の草原だった。



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