余りにも容易く、その身体は宙に浮いた。煽られるように大樹から離れていく。彼の身体は迷いなくその後を追った。しっかりと小さな右手を掴む。

二人を独特の感覚が襲ったのは、直後のことだった。

支えがない。足は本来あるべき場所になく、相応しい場所へと引きずられていく。――大樹の奥は、切り立った崖だったのだ。

それは偏(ひとえ)に優れた反射神経の賜物だっただろう。彼は落ち始めてすぐ右手を伸ばし、崖の縁に掴まった。一時的に二人分以上の重みが掛かる。しかし彼は耐えてみせた。パラリと土の欠片が落ちる。

ナミは力尽きたのか、更なる攻撃は放たれなかった。激しい戦闘が嘘のような静けさの中、彼の息遣いだけが目立つ。この状態も長くは持たないだろう。彼が繋いだ手に力を籠める。

「放して……手を、放してください!」

必死に彼の方を向くと、ミノンは泣きそうな顔で訴えた。小石がカラカラと崖の面を転がり落ちていく。追うように地上を見た彼女は一瞬で血の気が引く思いを味わった。高さは200フィート(約60メートル)を優に超しているだろう。落ちれば間違いなく助からない。

「お願い、放して……!」

再び上を見た彼女の懇願に、彼は力を強めることで答えた。決して放さない。そういった意思が確かに感じられる。彼女はいっそう悲痛な表情になると、身体中の力を振り絞って叫んだ。

「私なら大丈夫、治るから!」

術を使えはしない。治癒の術だけでも使えたら、そう思っても叶わない。しかし――死を阻む治癒状態は持続していた。未だ資格を失ってはいないのだ。不死の身で力を振るう、神の遣いの。

「……このままじゃ、……あなたまで……!」

だから巻き込みたくない。自分は助かるから。それが彼女の思いだった。彼にも理解はできただろう。しかし、彼は力を緩めなかった。代わりに口を開く。

「手を伸ばせ。」

苦痛に耐えながら吼えるような、低い声だった。しかし迷う彼女を見て鋭く叫ぶ。

「早くしろ!」

彼のそんな声を、彼女は初めて聞いた。目を見開き、じっとその姿を見つめる。迷いが断ち切れたわけではない。だが彼女は導かれるように、懸命にその左手を伸ばした。同時に彼が片腕の力だけで身体を引き上げてやる。

やがて彼女は、しっかりと彼の首筋にしがみついた。外套のフードがとれ、彼の温もりを頬で感じる。その瞳からは一粒の雫が流れ落ちた。口では大丈夫だと言っていても、やはり恐怖はあったのだ。彼が抱き留めるように支えてやる。

彼女を連れて登ろうと、彼が体勢を立て直した時だった。

右手の掴んでいた縁に亀裂が走る。間もなくパラパラと土が舞い、やがて剥がれるように地面から離れた。逸速く事態を理解した彼が、側面にナックルを突き立てて勢いを削ぐ。再び襲った衝撃に彼は顔を顰めたが、それでも決して彼女を放しはしなかった。落下が止まったところで殊更に強く力を籠める。

「自力で掴まれ。」

時間の問題であることは彼が一番にわかっていた。彼女にそう告げ、両手を自由にして崖を登ろうと試みる。彼女にとって自分の体重を支え続けることは至難の技だったが、言われた通りに掴まった。お互いに渾身の力を発揮する。しかし頂上は遠かった。彼が途半ばで息を切らせる。

「サラマンダー様。……どうして……ここまでしてくれるんですか?」

それでも登ろうとする彼に、彼女は静かな声で問いかけた。彼が息に交ぜるように答える。

「…………おまえを守ると、決めた。」

苦しそうな声に、迷いはなかった。――ずっと求めていた結論。生きる意味。存在する理由。あるべき場所。

自分が何をしたいのか。
自分に何ができるのか。

探し当てればそれは何より確かで、心の中で一つの形をとっていた。言葉にすることもできるほどに。

「…………。……私には、もったいない。」

彼女の台詞に、彼は答えなかった。聞かなかったフリで次に掴む突起を探す。岩を見つけると、それを手がかりに大きく身体を持ち上げた。チャクラをかけてから息を吐く。

「……サラマンダー様。あなたは、生きて。」

彼女はそれと同時にぐっと力を入れ、彼の顔に口を近づけた。息を吐くように小さく笑う。

「ありがとう。」

だいすき。

そう、そっと耳打ちされたのを最後に、彼は一瞬の浮遊感を味わった。

次いで温もりが失われる。――離れていく彼女は、時の流れがひどく緩やかになったように見えた。外套の白がひらめく。黒い横髪がふわりと舞い上がった。地面に吸い込まれるように姿が小さくなっていく。彼の方をしっかり捉えて浮かべられた笑みは、何より印象的だった。まるで――今際の時のように。

どこまでも愚直な男だと、人は言うだろうか。

彼にそれを見送ることはできなかった。




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