そんな脆くも穏やかな時間は、呆気なく幕切れを迎えた。
ある日サラマンダーが訪れると、ミノンは寝台の上に座っていた。俯いた顔は髪に隠れている。彼が近づいても、彼女はまるで気づいていないかのように微動だにしなかった。周囲の空気は息をしているのかも疑わしいほど静かだ。その手には、先日彼が心の支えになるならと贈った指輪が握り締められていた。時が止まったような空間に彼の足音と衣擦れだけが響く。
「……どうかしたのか。気分でも悪いのか?」
彼が顔を覗き込むようにしゃがんで問いかけても、彼女は何も言わなかった。先日までとは一転して、そこに柔らかい空気はない。彼の声も聞こえていないかのようだ。やがて彼が細い腕に触れた時、小さく息を吸う音がした。
「…………わたしは、」
囁くような声。吐息に交じった言葉は微かで、しかし確かな意思を纏っている。
「……私は、また、守られていたんですね。」
彼女は座ったまま、右の腕をそっと動かした。顔は上げず、まるで遠くから布を掴んだかのように、その場でカーテンを操って開ける。
窓ガラスの向こうにあったのは――暗く曇った世界だった。
「……私は……いつも、こうして……守られてばかりで……何も、変われない。」
ぽつりぽつりと、拾い集めるように言葉を紡ぐ。
「一体、いつから……いつから、こうなっていたんですか。」
記憶が戻ったのか、そうでないのか。昨日までの様子は偽りだったのか、そうでないのか。それを確かめる術を彼は持たなかった。声は細く弱々しいのに、そこに圧し殺された感情はあるはずなのに……身体は震えず、むしろ不自然なほど静かな空気を纏っている。彼の技量では――その内に秘められた心を知ることは、困難だった。
「……今朝からだ。」
どちらにせよ嘘を吐く必要はないと結論付け、真実を口にする。
「おまえが言うように……おまえを、守りきれたら良かったんだがな。」
思いもよらぬ言葉だったのか、彼女ははじめて動きを見せた。徐に頭を擡げる。顕になった頬には涙痕も生彩もなかった。円い瞳がじっと彼を捉える。
「おまえの力が要る。……リアが、おまえを連れ出せと言った。もう、あの女の許可は要らないと……必要とあらば盗み出せと。」
その宵闇に似た色を確かに見つめかえし、彼は淡々と……しかし強い口調で語った。華奢な両肩を骨張った手で包む。
「今日は、迎えに来たんだ。――ミノン。」
何をも凌ぐ強大な力を秘めるモノ。傷ついた脆く儚い心を秘めるヒト。――その双方の要素を併せ持つのが、ミノンという少女だった。切り離して考えることはできない。いくらヒトとしての彼女の心を守りたくても、強大な力の存在を無視することはできないのだ。
そして、彼女は守られるだけの立場を嫌っていた。他人が傷つくくらいなら――自らが傷つこうと考えているのだ。それを身を以て知る彼とリアが、街の危機を目の当たりにして下したのは……その力を行使させるという決断だった。
あくまで、ヒトとしての彼女の心を守りながら。
彼女は動くことなく黙りこくっていたが、不意に後ろを振り返った。それと殆ど同時に、彼も人の気配に気づく。
「盗み出せとは、随分な言い様だな。」
気配を消していたのか、聞こえていたのか。上辺は不服そうな言葉と共に、彼女らの背後にあった扉の陰からは黒髪の女が現れた。
「……おまえか。……こいつは連れていく。」
「良いだろう。」
女が赤い唇の端をつり上げ、橙の瞳を細める。
「ただし、くれぐれも気を付けろ。……まあ、何が起きても受け入れるしかないのが、我々というものの立場だがな。」
その顔は笑ったようにも呆れたようにも見えた。並べられた言葉は語ろうとしているようで何も語らない。しかしそうした何か意図ありげな様子を見飽きていた彼は、少しも意に介さず少女に手を伸ばした。
「……共に、来るか。」
再び己の姿を捉えた漆黒の瞳を、鋭い光を宿した金色の瞳でまっすぐに見つめる。
やがて、白い手が銀の鎖を首に掛け、指輪を懐へ仕舞った。
「はい。――私を、連れて行ってください。」
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